「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「居場所」が不確かな環境に身を置いて思うこと

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確固たる「居場所」のあった職場から転職して、

足元が大きくぐらついている。

 

職場ではもちろん謙虚に「ハイ!ハイ!」と教えを乞いながら過ごしている。

 

だけれどもそれだけではない。

日常まで謙虚になっている自分に気がつく。

 

不確かな居場所は日常にまで侵食し、

根本的に私の「立ち位置」を変容させる。

 

私の中で「自信」が揺らいでいるからだろう。

 

仕事という生活の基盤で確かな「居場所」を確保していた頃は、

ある程度は「我が物顔」で生きることができた。

それはその「居場所」には止まらない。

 

「自分は社会に貢献している」という思いもあるだろう。

些細なことでイライラしては態度に出すことを厭わない。

そんな「傲慢さ」を野放しにしていたのかもしれない。

 

今は駅で左側通行を守らない奴なんかがいても、

全くイライラしないどころか自分から避けて通る。

 

自らの「立ち位置」というものは、

私が思った以上に日常に影響を与えているのかもしれない。

 

そのことに気がついたことは収穫か。

 

これから先に私がまた「居場所」を確保したとしても、傲慢不遜な態度を戒める必要がある。

 

人は同じところに長く止まって、

思い通りになるような環境に身を置くと、

どこか気がつかないうちにおかしくなってしまうのかもしれない。

 

それは些細な変化かもしれないけれど、

長い目で見れば大きくズレてくる。

 

「自分は特別なんだ」って、隠れていた幼稚的全能感が顔を出し、

「攻撃をする権利がある」だとか、もっと報われるべきだとか、自分本位な方向へと進んでいく。

 

これでは人間ダメになる。

 

だから、常に不確かな足場の上で自分を鍛えている人はすごい。

 

そこに留まれば「居場所」を確保できるのに、そこからさらに上を目指す。

私が今回踏み出した一歩は、まさにそういう一歩だ。

 

今の「謙虚さ」を忘れないようにしたい。

その上で「自分の可能性を信じ続けられる」ようになりたい。

 

そういう姿が人格の完成形、

その一つの形なのかもしれない。

 

私は私のことを「研究材料」として、

こうして心の動きを綴っている。

 

どこか薄れる当事者意識、

もちろん努力はしているけれども、

どこか人ごとのように自分を観察しているのだ。

 

この感覚にもだいぶ慣れてきたけれど、

危機感を感じるべきところで危機感を感じていないところに問題を感じる。

 

口では「大変だ」と言っていても、

心がその「大変だ」について来ない。

 

これは少しまずいところもある。

チューニングしないといけない。

 

おかしな方向へと行かないように、

自分のことを監視し続けた結果、

私は「私でありながら私ではなくなった」

自分でも気持ち悪さを感じることがある。

 

もっと焦って余裕がない振る舞いをした方がいいのかもしれない。

慣れない環境に身を置いているのだから、

 

「ため息」ばかり出るけれど、自然と焦りはない。

私は周りから見て、あまりにも淡々としていて人間味がなく映るのかもしれない。

 

コミュニケーションの機会は限られている。

不気味な存在のまま私は新しい環境に居続ける。

 

だけれども「居場所」は不確かなのだ。

そこについては危機感を感じる必要がある。

 

社会というものは難しいものだ。

人生というものは難しいものだ。