「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

映画『聲の形』に見る、「救われるため」の身勝手さ

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人生のある一面だけを切り取って、

あたかもそれが人生の全てのように賛美する。

私はそういうのが苦手なのだろう。


映画『聲の形

 

耳の聞こえない少女と、彼女をいじめていたことを後悔する少年、

時を経て偶然再会する。

少年は人生うまくいっておらず、少女をいじめていたことを後悔して懺悔のために彼女に近づく。

 

そんな筋書きからカタルシスを狙う作品、


原作は未読だ。

京アニの傑作とのこと、


少し前に金曜ロードショーで見たけれど、

レビューの高評価とは裏腹に正直私は「イマイチ」だった。


まず原作を2時間で収めるには尺が足りなかったのだろう。

心理描写が甘い。

唐突で肝心のヒロインの心の動きがよくわからない。


そして「懺悔」と言うテーマに偏りすぎだ。


大きな後悔があり、

それをクリアしなければ先に進めない。

だからそれに拘り続ける。


そういう気持ちはわかるけれども、

あまりにも「懺悔」に人生を捧げすぎていると、

現実味を感じられずに気持ちが悪い。

 

人は「うまくいかない現実」を「過去の行いのせい」にしたがる。

因果がはっきりしている方が、対策の打ちようがあるから腑に落ちるのだろう。

 

そういう心理描写を元にして、

心の醜さを描くのならば大したものだけれども、

そういう様子はなく、ただただ懺悔に勤しみそれを美談にしようとする。

 

これは原作者の意図だったのだろうか。

それとも映像化の弊害か。

 

人生それだけではない。


「後悔しているけれど、こういう逃げ道もあるよね」って、

人生の多くは後悔とは関係のないところで進んでいる。

 

どこかで都合よく折り合いをつけて、

傷つけたこと、傷ついたことを心の奥底に仕舞い込んで生きている。


それでも前を向いて生きられるのだ。

「後悔と向き合うこと」が全てではない。

 

誰だって多かれ少なかれ、

そうやって「醜い心」を隠しながら、

「醜い心」を抱えながら生きている。


被害者にしたって、

過去を穿り返されるように関わられるとかえって迷惑だ。

この作品のように歓迎されるケースは稀だろう。


現に私は、

「心を犯してきた不誠実なクソ女」と、

二度と関わりたくないと思っている。


罪悪感からいじめた相手に謝りに行くなんて、

自分が救われたいだけの身勝手な行為だ。


原作がどうかはわからないけれど、

ちょっと視野が狭すぎるんじゃないかな。


「後悔と向き合うこと」


その先にしか「救い」がないのであれば、

ほとんどの人にとって人生は破綻しているはず、

 

「後悔」と向き合い続ける人生なんてものは、

とんでも無く負担のかかる大変なもの、

 

被害者にも加害者にも負荷がかかりすぎるのだ。

だから結局はどちらも折り合いをつけて生きている。

 

だけれども、それじゃあ作品にならないから、

「懺悔」を美談にしてそれぞれが苦しむ様を見せ物にしている。


なんだか「懺悔」を強要されているようで、

この作品は好きになれなかった。

 

それでもこうして筆を取るのは、

なんだか心に引っかかるものがあるからだろう。

 

私の心の琴線に触れて、

何かを掻き立てるような力のある作品なのだ。

 

私はどこかで「許されたい」

そして「許したい」と望んでいるのだろうか。

 

閉じ込めていた「醜い心」

それが外に出たいと私の中で蠢いている。

そんな気配を感じるのかもしれない。

 

誰もが救われたい。

だけれども救われない。

だから、折り合いをつけながら生きている。

 

妥協したり、

諦めたり、

 

別のもので代替して、

それが正解だったと信じ込むことで前に進んでいる。

 

自分の人生は幸せだと信じ込む力、

何はともあれ、そういう身勝手な思い込みが必要なのだ。

 

この作品と相性が悪いと感じるのは、

私の中に「身勝手さ」に対する憧れがあるのだろう。

私は少しばかり、私のことを監視しすぎているのかもしれない。

 

もっと適当でいいのだ。

その先にだってきっと、救いはあるのだから、