人生のある一面だけを切り取って、
あたかもそれが人生の全てのように賛美する。
私はそういうのが苦手なのだろう。
映画『聲の形』
耳の聞こえない少女と、彼女をいじめていたことを後悔する少年、
時を経て偶然再会する。
少年は人生うまくいっておらず、少女をいじめていたことを後悔して懺悔のために彼女に近づく。
そんな筋書きからカタルシスを狙う作品、
原作は未読だ。
京アニの傑作とのこと、
少し前に金曜ロードショーで見たけれど、
レビューの高評価とは裏腹に正直私は「イマイチ」だった。
まず原作を2時間で収めるには尺が足りなかったのだろう。
心理描写が甘い。
唐突で肝心のヒロインの心の動きがよくわからない。
そして「懺悔」と言うテーマに偏りすぎだ。
大きな後悔があり、
それをクリアしなければ先に進めない。
だからそれに拘り続ける。
そういう気持ちはわかるけれども、
あまりにも「懺悔」に人生を捧げすぎていると、
現実味を感じられずに気持ちが悪い。
人は「うまくいかない現実」を「過去の行いのせい」にしたがる。
因果がはっきりしている方が、対策の打ちようがあるから腑に落ちるのだろう。
そういう心理描写を元にして、
心の醜さを描くのならば大したものだけれども、
そういう様子はなく、ただただ懺悔に勤しみそれを美談にしようとする。
これは原作者の意図だったのだろうか。
それとも映像化の弊害か。
人生それだけではない。
「後悔しているけれど、こういう逃げ道もあるよね」って、
人生の多くは後悔とは関係のないところで進んでいる。
どこかで都合よく折り合いをつけて、
傷つけたこと、傷ついたことを心の奥底に仕舞い込んで生きている。
それでも前を向いて生きられるのだ。
「後悔と向き合うこと」が全てではない。
誰だって多かれ少なかれ、
そうやって「醜い心」を隠しながら、
「醜い心」を抱えながら生きている。
被害者にしたって、
過去を穿り返されるように関わられるとかえって迷惑だ。
この作品のように歓迎されるケースは稀だろう。
現に私は、
「心を犯してきた不誠実なクソ女」と、
二度と関わりたくないと思っている。
罪悪感からいじめた相手に謝りに行くなんて、
自分が救われたいだけの身勝手な行為だ。
原作がどうかはわからないけれど、
ちょっと視野が狭すぎるんじゃないかな。
「後悔と向き合うこと」
その先にしか「救い」がないのであれば、
ほとんどの人にとって人生は破綻しているはず、
「後悔」と向き合い続ける人生なんてものは、
とんでも無く負担のかかる大変なもの、
被害者にも加害者にも負荷がかかりすぎるのだ。
だから結局はどちらも折り合いをつけて生きている。
だけれども、それじゃあ作品にならないから、
「懺悔」を美談にしてそれぞれが苦しむ様を見せ物にしている。
なんだか「懺悔」を強要されているようで、
この作品は好きになれなかった。
それでもこうして筆を取るのは、
なんだか心に引っかかるものがあるからだろう。
私の心の琴線に触れて、
何かを掻き立てるような力のある作品なのだ。
私はどこかで「許されたい」
そして「許したい」と望んでいるのだろうか。
閉じ込めていた「醜い心」
それが外に出たいと私の中で蠢いている。
そんな気配を感じるのかもしれない。
誰もが救われたい。
だけれども救われない。
だから、折り合いをつけながら生きている。
妥協したり、
諦めたり、
別のもので代替して、
それが正解だったと信じ込むことで前に進んでいる。
自分の人生は幸せだと信じ込む力、
何はともあれ、そういう身勝手な思い込みが必要なのだ。
この作品と相性が悪いと感じるのは、
私の中に「身勝手さ」に対する憧れがあるのだろう。
私は少しばかり、私のことを監視しすぎているのかもしれない。
もっと適当でいいのだ。
その先にだってきっと、救いはあるのだから、