私は5年ほど前に一度メンタルをやってしまった。
診断は「パニック障害」だったが、定型のそれとは大きく違い、
「全般性不安」に近い症状に苛まれる。
もともと「細かいことを気にしないタイプ」だったと思うが、
それを機に「不安が強いタイプ」へと180度変わってしまった。
ストレスが溜まると後頭部がヒリヒリして休息を促すし、
のび太のように眠れていたはずなのに「眠れない夜」が増えた。
「前の私」から「今の私」に変わって戸惑うことばかりだったけれど、
ある程度は付き合い方を学び、それなりにやれるようになった。
「不安が強い」ということは何も悪いことではない。
その分、周到な準備をするようになるし、それを乗り越えた数だけ強くなれる。
「前の私」は考えなしに失敗しては落ち込むことが多かったように思うが、
「今の私」は取り組むことの精度が上がり、「失敗しても次に活かす糧にしよう」というマインドが形成されているように思う。
これは大きな進歩だ。
「今の私」になった直後の「無垢で真っ白な心」
たくさん傷つくことでかさぶたを作ってはそれを修復し、表面はゴツゴツするようになったけれど、その分、傷にも強くなったのかもしれない。
「前の私」のバイタリティやタフさに思いを馳せることはあるけれど、
私は「今の私」をそれほど嫌いではないようだ。
自分大好きナルシスト、
そういう性質を自覚しているけれど、それもまた悪いことばかりではないのだろう。
「不安」に直面したときの私、
些細なことであれば、その場でロジックを組み立てて対処法を考える。
反復演習の賜物か、その手のスキルにある程度自信はある。
だけれども「言いようのない不安」
「自分だけでは対処できない不安」と言い換えることができるだろうか。
時折、そのような「不安」にぶつかっては、「今の私」は積極的に周りに助けを求めて対処法を必死に探す。
あらゆる手を尽くしても解消しない類のものには、必要以上に労力を割いて煩悶し続ける。
客観的に「そこまで悩む必要なんてないのに」と思うこともしばしばだ。
だけれども、私は「悩むこと」をやめられない。
自分の「不安」ととことん向き合うことが癖になっているのだろうか。
「不安の9割は杞憂」だと言われるけれど、
一度メンタルをやってしまった影響か。
「不安」のほうが簡単には私のことを離してくれない。
私は私で「不安と向き合うこと」に「生きがい」を感じているのかもしれない。
そんな「私」と「不安」の関係性、
無駄にリソース使わされて辟易することも多いけれど、
振り返ると、そう悪いものでもないのかもしれない。
悩んだ分だけ人生に還元されている。
悩んだ分だけ覚悟に変わる。
そんな実感は多少ある。
「不安」は私を強くしてくれるのだ。
「眠れない夜を乗り越えるたびに強くなれる」
私は私にそう言い聞かせてきた。
そうして今では「眠れない夜」をやり過ごせるようになれた。
そうやって糧にしていけばいいのだ。
コントロールできない感情までコントロールしようとするからおかしなことになる。
世の中には、どう頑張ったところでどうしようもないことは山ほどある。
できるところからコツコツと歩みを進めるしかない。
一歩、また一歩と歩みを続ければ、気が付くとそれなりに高いところに辿り着いている。
そこで振り返って初めて、
人は自分の人生を肯定できるのだ。
楽して頂上に辿り着いたところで充実感はないだろう。
人生というものは一筋縄ではいかないのだ。
だからこそ、やりがいがある。