今の私は新しい環境に慣れようと必死だ。
時間的な拘束は転職前のほうがよほど長かったが、
どうにも常々落ち着かず、
読書をしていても、ブログ巡りをしていても、勉強をしていても、
「ハッとする感覚」というか、そういうものが湧いてこないのだ。
確か茂木健一郎さんが提唱していた。
人は感動体験により脳を活性化させるという、
いわゆる「AHA体験」というやつ、
別の話だったかもしれないが記憶の定着についても、
その時の環境や感情に紐づけたほうが効率は良いみたいだ。
だから、作業のようにこれまでと変わらずインプットをしていても、
心に余裕がないと「ただこなしているだけ」となってしまう。
これは由々しき事態、
インプット自体が時間の浪費となれば、
当然アウトプットにまで影響は出てくる。
思えば転職前は湯水のように湧いてきたフレーズが、
ここ最近はトンと湧いてこない。
記事を生み出す速度は格段に鈍化して、
過去に書いた記事のストックは減っていく一方だ。
このままだとどこかで連続更新が途絶えることになる。
でも、前の私だったら、
これを「由々しき事態」とは感じなかっただろう。
気の向くままに書いて、続けるのもやめるのも気の向くまま、
たまたま気持ちが続いているから書き続ける。
そういうスタンスでブログに取り組んできた。
「私とブログとの距離感」
それも変わってきているのかもしれない。
他にリソースを割くものができたから、
私はどこかブログに対して「続ける努力」をするようになってきている。
空気のように自然と存在していたものが、
自然ではなくなってしまった。
その感覚はブログにどのような影響をもたらすのだろうか。
今はまだ書きたいことがあるから、
とりあえずのところは食い繋いでいる。
だけれども、ストック記事が枯渇して、
生み出すことに苦しみを感じる時が来たならば、
今の私は悠々とブログを手放すことができるのだろうか。
人は時間をかけるほどに、その対象に執着するようになる。
私に取ってのブログもまた、そういうものに変わってきているのだろう。
元はと言えば表題の通りだ。
インプットの質と量が落ちているから、アウトプットに努力を要することになる。
私の気持ちが落ち着いて、思考に余裕が出てきたら、
また次々と記事を生み出すようになるのだろうか。
それはそれで先に進んでいない気もするけれど、
私が書き続けている間に、多くのブログ仲間が卒業していった。
おそらくみんな、ブログの他に情熱を傾けることのできる何かを見つけて先に進んでいったのだろう。
それは強制力の働いた結果かもしれないし、
能動的に得たものかもしれない。
いずれにしても、続けていたものを辞めて別のことに時間を使うようになったということ、
書き続けているということもまた、
先に進んでいるようで進んでいないのかもしれない。
そう考えると、
今感じる、私とブログの間に生じている些細な変化は、人生が進んでいるという点で好ましいものなのかもしれない。
「微妙な距離感の変化」
男女関係もそこからもつれてくる。
私とブログはこれから先もうまくやっていけるのだろうか。