誰しも「自分」というキャンバスに色を塗りながら生きている。
毎日何かを選択することを迫られて、
そのたびに「赤」か「青」か「黄色」か、
それとも新しい色を使ってみたいから「エメラルドグリーン」かって、
そうやって選びながら生きているのだ。
「油性の絵の具」で上書きすることもあれば、
「水性の絵の具」で過去に選んだ色と混ぜることもある。
納得いく出来の作品ができたならば、
「これが私なんだ」って、名前を付けて保存しておけばいい。
そうやって保存したフォルダを眺めては、
「自分はこういう人間だ」と何者かになれたように安堵する。
しばらくの間、納得のいく作品ができなかったら、
「停滞感」を感じて不安になる。
フォルダの内容を人と比べてさ。
どこか物足りないようだとまた不安になる。
そのうちに「納得していないもの」や「中身のないもの」でフォルダを埋め合わせて、
とりあえず「人と同じだけのものがあること」に胸をなでおろす。
そのうちにフォルダはどんどん雑多になっていき、
自分でもどこに何を置いたのかわからなくなる。
「自分はこういう人間だ」って決めたはずなのに、
本当にそうなのかどうかもわからなくなる。
上手くやっていくために、
いくつもの「ペルソナ」を使い分けてさ。
「醜いもの」でも「使用中」で削除できないからってフォルダの階層深くに押し込んでさ。
「都合の良いもの」だけを見える範囲に置いておく。
そうやって「自分はこういう人間だ」って悦に浸るのだ。
なんとも「都合の良いこと」で、
なんとも「ご都合のよろしいこと」で、
「醜さ」も自分自身、
消したくても消せない自分自身、
「虚像」ばかりを信じ込んでいるうちに、
やがて「虚像」はどんどん肥大化していく。
何に怯えているのかな?
どうしてそんなに必死なのかな?
嘘を本当にしなければいけないってことはさ。
自分の「弱さ」や「醜さ」をさらけ出すことよりも大変なこと、
「見せかけ」ばかり立派で中身はスカスカ、
それほど「惨めな人生」はないんじゃないのかな。
「自分らしさ」
本当に自分らしい人ってのは、周りからどうみられるのかをあまり気にしない。
周りに対して自然と自分のことを曝け出すことができるから、
定義づけることにばかり拘って、
自分をブランディングすることばかりに躍起になって、
立ち位置ばかりを気にして生きて、
なんだかさ。
疲れてしまうよ。
社会ってものはそういうところなのかな。
生きるってことが、
もっと自由にならないのかな。