30を過ぎて「真実の愛」だなんてフレーズを使い、
恋愛に思い悩んでいるような記事を書くやつ(私)がいるんですよ~。
「なに~!やっちまったな~!!」
「男は黙って風俗!男は黙って風俗!」
おそらく世間の感覚としてはそんなものなのだろう。
前にこんな記事を書いた。
毎日検索流入のある記事だからそれなりに注目されているのだろう。
何をどう調べたのか記憶にないのだけれども、
公式?な調査によると、男性の風俗経験率は4割強とのことだ。
おそらく感覚的に実態はもう少し高いものになるはずだ。
これは女性からすれば「けしからん」となるのに十分な数字だろう。
だから、、、というわけではないかもしれないが、
「真実の愛」界隈の記事を書くと、概ねオンラインでは好意的に捉えられる。
多くの人は少なからず「恋愛はそうあるべきだ」という理想をもって生きているのだろう。
ドラマにしたってそう。
音楽にしたってそう。
「純愛」というものはチヤホヤされる。
人はそういうものに惹かれ続けるのだ。
だけれども、それに引きずられすぎて、確かな立場を確保してもいないのに、
「真実の愛」だなんて不確かなものに惑わされながら生き続けていると、手遅れになった後にふと我に返る。
「そんなものは想像の世界にしか存在しないんじゃないか」って、そんな現実を突きつけられる。
そう思ってしまってからは大変だ。
「魔法が解けてしまった」
夢の世界にどっぷりと浸かって、周りは妥協するなりしてどんどん先に進んでいく。
これまで時間を費やしてきた「信念」と、避けることのできない「現実」との間で頭を悩ませることになるのだ。
人は時間を費やすほどに、その対象につよい執着を持つようになる。
だから「真実の愛」だなんてお題目を長い間掲げているほど妥協できなくなる。
そうやってチャンスを逃し続けて今に至るのが私だ。
デキ婚でも何でもいいから、早いうちに結婚せざるを得ない状況に追い込まれて、
その中で適応していくほうが生物としてはよほど健全なのだろう。
若いうちのエネルギーはバカにならないから、過酷な環境に身を置いても適応出来る。
多くは成り行き任せ、
そうやって人生は形作られるのだ。
私は「理性」にこだわるあまり、
「生物」として為すべきことを遠ざけてきたのだろうか。
そもそものメカニズムとして、チャンスがあればオスとメスは交わるようにできているのだ。
そういうプログラムが有性生物には備わっている。
そのチャンスを迎えるたびに「誠実さ」だとか「気持ちの置き場所」だとか、
そんなあやふやな理由をつけて本能に蓋をして、ただ時ばかりを重ねてきた。
もちろん「真実の愛」を信じた末に結ばれた人もいるのだろうけれども、
きっと多くの人はさ。
「創作は創作だ」って割り切りながら、
どこかで妥協しながら関係を先に進めてきた。
結局はそういうことなのだろう。
だからみんな「真実の愛を貫く」界隈の人たちのことを応援してくれるのだ。
「あとは託した」って、そんな気持ちなのかもしれない。
現状に満足はしていないながらも、
おそらくその中で適応して幸せに生きている。
そういう人たちから見れば、私のようなのはきっとチャレンジャーに見えるのだろう。
だけれども、もう疲れてしまったよ。
そうこうしているうちに、もはやチャンスすらなくなってしまったよ。
やはり「信念」は「諸刃の剣」なのだ。
それを武器にして戦い続けるうちに、自らも傷ついていく。
おまけに「真実の愛」が報われる確率は「魔神の金槌」が3回連続で会心の一撃を食らわすくらいの確率だ。
一度目で出会い、二度目で交際、三度目の奇跡でようやく結婚に至るのか。
そう考えるとチャンス自体がそんなにあるものではない。
リスクの高い武器ばかりに拘っていないで、
早いところ、「ひのきのぼう」や「どうのつるぎ」あたりに持ち替える人生が正解なのかもしれない。