(出典:映画『ミッドサマー』公式サイト)
こんなにヤバい映画は初めてかもしれない。
だけれども、どこか「機能的集合体としての人間」の本質を突いている。
昨年の話題作、
私が見たのは例の如くAmazonプライムだ。
ジャンルは「ホラー」らしい。
にも関わらず、初めから終わりまで牧歌的、
それがヤバさを引き立てる。
ネタバレはほぼ無しで書き進める。
あらすじはこうだ。
ヒロインは精神的に不安定、
家族を失い、ちょっとしたきっかけで過呼吸に陥るほど深刻な状態、
そんな中での夏休み、
彼氏とその仲間達と共に旅行に行くことに、
場所は仲間の1人の故郷であるスウェーデン、
たどり着いたのは人里離れた集落、
独自の風習を研究しようだなんて息巻くが、徐々に怪しげな雰囲気に包まれていく。
テーマは「人生からの解放」だろうか。
現代人は「自由」を与えられすぎたがために、
敢えて、もがき苦しみながら生きている。
「男らしさ、女らしさ」
今やLGBTが市民権を獲得して、
そうした括りからも人は解放されつつあるのかもしれない。
だけれども、あまりにも解放されすぎた先に何が待ち受けているのか。
それは、個人に委ねられたあまりにも大きな「どう生きるのか」という難問、
「人として生きるということ」はどういうことなのか。
「生を全うするということ」はどういうことなのか。
自由を与えられれば与えられるほどに、それは個人に委ねられることになる。
この映画は「同調圧力の恐ろしさ」を描くと同時に、「同調圧力のありがたさ」を描いているのかもしれない。
現に「居場所」を得たヒロインが最後に見せた表情は、どこかホッとしたというものだった。
「理性の象徴」
「社会」における道徳やモラルなどが全く通用しない世界で、若者たちは理不尽に屠られていく。
「人は特別な存在で、人権は守られるべきだ」
あまりにも肥大化した「社会」というコミュニティ、
この作品は、今や当たり前とも言えるべき「人権」という概念に対するアンチテーゼなのかもしれない。
だから「ヤバい」のだ。
一昔前までは、人は道具であり機能だった。
今でも世界にはそのように扱われている人たちがたくさんいる。
しかし、それは忌むべきものとして扱われ、不都合な真実には蓋をして生きている先進国の住人たち、
機能であり、道具であることを当たり前のように受け入れて生きている人たち、
そこにもある種の「安らぎ」があるのだろう。
ホワイトカラーとブルーカラー、
専門職志望と管理職志望、
結婚するか否か。
子供を育てるか否か。
男として、女として、
どこまで挑戦して、どこで割り切るのか。
現代人は社会において、絶え間なく選択を迫られている。
かつては働けば働くほど評価されていた。
そんな時代から急転直下、
残業は極力減らして家庭での時間を大切にしろ、
男性も積極的に育児休暇を取得しろ、
あまりにも振れ幅が大きすぎて、
もはや、何が正解なのかはわからない。
だからこそ「正解」は個人に委ねられるしかないのだ。
ある意味では恐ろしい時代、
あまりにも求められることが大きくなりすぎて、
どう生きたらいいのかわからなくなっているのだ。
だから人は追い詰められると、
それがどんなにヤバいものだとしても、
「居場所」を求めて「同調圧力」に染まる。
みんなと同じようにして、コミュニティのルールを守っていれば、「居場所」は保証してもらえるのだ。
それはある種の「安らぎ」を与えてくれる。
だけれども、どこまで行っても「自己責任」であることに変わりはない。
私が象徴的に感じたシーン、
自ら望んで神への「生贄」として身を捧げることを決意した集落の住人、
火をつけられる直前までは安らぎに満ちた表情、
だけれども、火がつくや否や叫び声を上げて悶え苦しむ。
もはや手遅れなのだ。
人は人、人は愚か、
大いなるものに身を委ねることによって得られる安らぎは、必ずしも身の苦痛に勝るとは限らない。
どのような結果になろうとも、自分の選択に責任を持ち続けること、
それ以外に正解はないのだろう。
近年のアカデミー賞、
『ノマドランド』に『パラサイト 半地下の家族』
「人はどう生きればいいのか」
そんなテーマを扱う作品が目立つ、
現代人はみんな「自由」を与えられることに疲れているのかもしれない。
本当にヤバいのは『ミッドサマー』に登場する集落なのか。
それとも「現代社会」なのか。
考えれば考えるほどに足場は不安定になっていく。
だからこの作品は「ヤバい」のだ。
ここまで記事を書いていてなんだけど、この作品を見ることは全くお勧めしない。
むしろ見ない方がいいんじゃないかと思うくらいだ。
もしも興味があるのであれば、心して見た方がいい。
そんな作品だ。