ここ最近は、記事を書くことが作業になりつつある。
環境の変化に対応することにリソースを割いているため、心の声を拾い集められていないのだろう。
自分のことを俯瞰して見る。
それが日常ブログの効果だと感じる。
記事を書くために過去のことを思い起こしてみたりだとか、何気ない喜びや憤り、
それを書き留めておいて記事として形にする。
私は何を考えて生きているのか。
それを客観的に評価することが意外と大きい。
人は、「自分は特別な存在」だと思って生きている。
その人にとっての自分は1人しか存在しないのだから、それは当たり前のことなんだけれども、
ともすれば、「自分はもっと報われるべきだ」と歪んだ自己愛で自らの非を包み込んでしまう。
そうなると、それを肯定するためのフローが完成されていく。
小賢しい人であればあるほどに、理論武装して自己正当化に躍起になり、気がつくと歪みは土台から作り直す必要があるほどに取り返しのつかないほど大きくなっていく。
自分の努力を誰よりも知っているのは自分自身、
だけれども「人から見える自分」を自分は誰よりも知らないのかもしれない。
言葉を自重したとしても無意識は態度に現れる。
知らずのうちに発するメッセージ、
そこに魂が宿る。
だけれども、それは自分では気が付けないことなのだ。
だから私は記事を書き続けることで、私のことを客観視してきた。
徐々に書いたものを読み返す機会は減っていった。
それは私が私のことを理解した証拠なのかもしれない。
読み返しても「同じようなことばかりを書いている」
そう感じるということは、少なくとも私は「今の私」を客観的に見て、「確かな物」だと感じて安心できているのかもしれない。
「自分のことがわからない」と人は不安になる。
だから私はブログを書き続けることで、自分を理解する努力をしていることで、安心したいのだろう。
だいぶ雑多になってしまったが、今書きたいことはそんなところだ。