「やる気」の原動力は「主体性」
「やらされる」からストレスになる。
だから人生に対して主体的であればあるほど、
ストレスを遠ざけることができるのだ。
私はそう思って生きている。
いくら「やる気」があったところで、
「思うようにいかないこと」はある。
だけれども、
「主体性」に満ち溢れている人は、
「思うようにいかないこと」まで含めて「自分の責任」だと思う。
誰かのせいにはしない。
誰かに評価されることを行動規範にしない。
「自分に腹が立つ」
そういう言葉があるけれど、
その言葉の半分は「自己陶酔」でできているのだ。
「私は私に対して期待してきますよ」
そういう気持ちがあるからこそ、自分に対して腹が立つ。
自己正当化ばかりしてさ。
誰かのせいにすることがクセになって、
自分に対して腹を立てなくなったら終わり、
その人の成長はそこまでだ。
だから「主体性」
そういう脳内麻薬で自分を気持ちよくさせて、
前に進む推進力にしてやればいい。
だけれども「主体性」
それにとことん身を委ねることは簡単なことではない。
「やらされる」とストレスがたまるけれど、
「主体性に身を委ねること」も楽ではない。
結局人生というものは、
紆余曲折しながら「自分の道」を探る旅なのだろう。
どこまで主体性を持って生き方を決めるか。
どこからは流れに身を委ねるか。
取捨選択の繰り返しによって、
その人の人生は形作られていく。
「思うようにいかない」
そういう場面に直面した時こそ、
その人の積み重ねてきたものが本物だったのか。
それとも偽物だったのか。
その真価が問われる。
どの道を選ぶのか。
そして、どの道を選ばないのか。
我々は何気なくだけれども、
この瞬間にも取捨選択をしているのだ。
その選択に責任を持って歩む。
力強く歩む。
後ろを振り返っても良いけれど、
足の爪先の向く方向は変えないで、
一歩一歩地面を踏みしめて歩んでいく。
やがて、歩んでいる道を肯定することができていく。
人は環境に染まりやすい生き物なのだ。
自ら掴み取ることも主体性、
流れに身を委ねることも主体性、
「自分の道を選ぶこと」自体が「主体性」なのだ。
「イマ」を肯定できていること、
人生にそれ以上に大事なことなんてあるのだろうか。
常に「イマ」を肯定できるような生き方をしたい。
それが一番のストレス対策なのかもしれない。