「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「バイアス」を自認することで「イライラ」をコントロールする

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ここのところ「イライラしている自分」を客観視している自分に気が付く。


「私のこと」をブログに書き続けて3年余り、

これでもかというくらいにメタ認知をし続けた成果だろうか。


「イライラ」の原因の多く、

それは「思うようにいかないこと」だ。


「これだけ努力をしたのに」

「これだけ成果を上げたのに」

「これだけ愛情を注いだのに」


懸けた労力が報われないほどに、

「イライラ」は募る。


だけれども、それは仕方のないこと、

コントロールできないことなど世の中には山ほどある。


どれだけ完璧に準備をしたところで、

報われない時は報われないのだ。


そこで「イライラしない」ということは無理な話、

詰まるところ「イライラしてから」が勝負ということになる。


昔の同僚の話、

クレーム対応をして電話を切った後に、

「死ね!」と叫ぶ人がいたけれども、これは模範的な「ダメな例」だ。


とにかく周りの印象が悪い。

「イライラ」が周りにまで伝染してしまう。


意図的にそういう行動をしているのであれば大したものだが、

彼はおそらく「イライラしている自分」を客観視できていなかったのだろう。

 

だから感情の赴くままに「言葉」で「イライラ」を発散しようとしていた。


「発散できればいいじゃないか」

いやそんなことは全くない。


個人の「イライラ」を発散したところで、

それが飛び火すれば組織として「イライラ」の総量は増えることになる。

それでは「負のスパイラル」に陥るだけだ。


気持ちよく仕事のできない環境というのは、大きく生産性を損ねる。

そういう人が一人いるだけで、おそらく全体の士気は大きく下がるだろう。


ではどうすればいいのか。


「イライラ」した時、私はその感情の出所を探る。

大抵の場合は「居場所」を奪われる可能性に対する恐れであることが多い。

その線を手繰り寄せていき、出所にたどり着く。


私の場合は「自意識過剰」が原因であることが多い。


「舐められた」「軽んじられた」だとか、

人の目を気にして相対的に自分を無価値に思えてしまう時、

そして「非合理的」だとか「非生産的」それを強いられる時に、

「イライラを感じていること」に気が付く。


ここから推測すると、

私は私の存在価値を「合理化」に見出していて、

自己評価が高く、他人の低評価を許容できないということになる。


なんとも「嫌な人間」だけれども、

思い当たる部分は大いにある。


私の「合理主義」はどこか尖りすぎているのかもしれない。


グレーゾーンで居心地よく過ごしている人たち、

その人たちからすれば、そこにメスを入れられることをひどく嫌うのだろう。


だから、その人たちは利権を奪われやしないかと、

「居場所」を奪われる不安が生じる。

そうやって利害の不一致から対立が生まれる。

 

「非合理的なもの」に対してバイアスかけて価値を低く見積もる。

逆に「合理的なもの」に対しては価値を高く見積もる。


「バイアス」


一般的には「認知バイアス」と捉える。

要は「思考の偏り」だとか「傾向」を指す言葉、


コーヴィー著『7つの習慣』だったかと思うけれど、

その習慣の一つとして「自らのバイアスの傾向を自認する」というものがあったはずだ。


この「合理化に対するバイアス」というものは、

私にとって大きな「気づき」なのかもしれない。


いくら「合理的」だったところでさ。

人の気持ちがついてこなければ価値はないんだよ。


結局「価値観」なんてものは人の数だけある。


だから自分のバイアスを認知したうえで、

感情の出所を探る習慣を身につければ、

自然と「イライラ」しにくい体質になるのかな。


年末は心動く季節、

1年間を振り返り、できなかったことばかりを洗い出してしまう。

 

だけれども、それは私が私の人生を諦めていない証拠なのだろうか。

 

寛容でいて、かつ成果をあげられる。

広く客観的な視点を身につけたい。

 

そう思った。