ここのところ「イライラしている自分」を客観視している自分に気が付く。
「私のこと」をブログに書き続けて3年余り、
これでもかというくらいにメタ認知をし続けた成果だろうか。
「イライラ」の原因の多く、
それは「思うようにいかないこと」だ。
「これだけ努力をしたのに」
「これだけ成果を上げたのに」
「これだけ愛情を注いだのに」
懸けた労力が報われないほどに、
「イライラ」は募る。
だけれども、それは仕方のないこと、
コントロールできないことなど世の中には山ほどある。
どれだけ完璧に準備をしたところで、
報われない時は報われないのだ。
そこで「イライラしない」ということは無理な話、
詰まるところ「イライラしてから」が勝負ということになる。
昔の同僚の話、
クレーム対応をして電話を切った後に、
「死ね!」と叫ぶ人がいたけれども、これは模範的な「ダメな例」だ。
とにかく周りの印象が悪い。
「イライラ」が周りにまで伝染してしまう。
意図的にそういう行動をしているのであれば大したものだが、
彼はおそらく「イライラしている自分」を客観視できていなかったのだろう。
だから感情の赴くままに「言葉」で「イライラ」を発散しようとしていた。
「発散できればいいじゃないか」
いやそんなことは全くない。
個人の「イライラ」を発散したところで、
それが飛び火すれば組織として「イライラ」の総量は増えることになる。
それでは「負のスパイラル」に陥るだけだ。
気持ちよく仕事のできない環境というのは、大きく生産性を損ねる。
そういう人が一人いるだけで、おそらく全体の士気は大きく下がるだろう。
ではどうすればいいのか。
「イライラ」した時、私はその感情の出所を探る。
大抵の場合は「居場所」を奪われる可能性に対する恐れであることが多い。
その線を手繰り寄せていき、出所にたどり着く。
私の場合は「自意識過剰」が原因であることが多い。
「舐められた」「軽んじられた」だとか、
人の目を気にして相対的に自分を無価値に思えてしまう時、
そして「非合理的」だとか「非生産的」それを強いられる時に、
「イライラを感じていること」に気が付く。
ここから推測すると、
私は私の存在価値を「合理化」に見出していて、
自己評価が高く、他人の低評価を許容できないということになる。
なんとも「嫌な人間」だけれども、
思い当たる部分は大いにある。
私の「合理主義」はどこか尖りすぎているのかもしれない。
グレーゾーンで居心地よく過ごしている人たち、
その人たちからすれば、そこにメスを入れられることをひどく嫌うのだろう。
だから、その人たちは利権を奪われやしないかと、
「居場所」を奪われる不安が生じる。
そうやって利害の不一致から対立が生まれる。
「非合理的なもの」に対してバイアスかけて価値を低く見積もる。
逆に「合理的なもの」に対しては価値を高く見積もる。
「バイアス」
一般的には「認知バイアス」と捉える。
要は「思考の偏り」だとか「傾向」を指す言葉、
コーヴィー著『7つの習慣』だったかと思うけれど、
その習慣の一つとして「自らのバイアスの傾向を自認する」というものがあったはずだ。
この「合理化に対するバイアス」というものは、
私にとって大きな「気づき」なのかもしれない。
いくら「合理的」だったところでさ。
人の気持ちがついてこなければ価値はないんだよ。
結局「価値観」なんてものは人の数だけある。
だから自分のバイアスを認知したうえで、
感情の出所を探る習慣を身につければ、
自然と「イライラ」しにくい体質になるのかな。
年末は心動く季節、
1年間を振り返り、できなかったことばかりを洗い出してしまう。
だけれども、それは私が私の人生を諦めていない証拠なのだろうか。
寛容でいて、かつ成果をあげられる。
広く客観的な視点を身につけたい。
そう思った。