今更ながら2019年の話題作『ジョーカー』を見た。
なんとも「救い」のないストーリー、
ただ「人でありたい」と願う「報われない男」の物語、
かと思いきや、母親の真実が明かされてからは、
「報われない男」から「狂人」としてのテイストを深めていく。
どこからが「現実」でどこまでが「妄想」なのか。
ミスリードを誘うようで誘っていないような描写のオンパレード、
それがなんとも「リアリティ」を醸し出している。
その中で登場するジョーカーの家路に佇む「長い階段」
これがとても象徴的だと感じた。
下から見上げると晴れ渡る空、
序盤は下を向きながら、その「階段」を昇っていく主人公、
狂気に目覚め「ジョーカー」と化してからは、
小粋に踊ってそれをゆっくりと降りていく主人公、
その間も何度か登場するその「階段」はまるで「壁」
「分断の象徴」のように思われた。
この「階段」は「社会」と「ジョーカー」の間にそびえる「壁」なのだ。
序盤はその「分断」を避けようと、
蔑まれながらも必死に壁を登り続ける。
母を支えるためにも、
「社会」にしがみつくために、必死に人としてもがいていたのだ。
ところが一線を越えてしまってからは、
その「壁」をあざ笑うかのように悠々と下っていく。
なんともコミカルに下っていく描写が印象的だ。
誰もが「分断」に怯えながら生きている時代、
「コロナ禍」により、
人と人とが触れ合わなくても仕事が成立する世の中へと加速している。
「分断への恐怖」
それは昨今、一層深まったようにも感じる。
「誰もがジョーカーになりうるのだ」
だなんて、お決まりのフレーズを書こうにも、
作品を通してみると、そうとも言い切れない。
前述のとおり「現実」と「妄想」の境目が分かりにくい作品だ。
その点も相まって「絶妙な不気味さ」を醸し出す。
結局最後までこの作品の主人公が、
バットマンの宿敵である「ジョーカー」なのか、
それとも「そうだ」という彼自身の妄想なのか。
見方によって、それがわからないまま終わる。
「報われない男」は「ジョーカー」にもなれなかった、
ただ「ジョーカー」に利用されただけの「狂人」なのかもしれない。
ここまで丁寧に作り込んできて、
「ジョーカー」というタイトルまでつけて、
最後に「妄想オチ」ともとれる終わり方、
色んな意味ですごい作品だ。
だけれども、その「あいまいさ」が、
渦巻く「社会の闇」としての象徴である「ジョーカー」というものを的確に表しているのかもしれない。
「階段」に言及するというよりも、
単に「作品評」になってしまったか。
その辺りの「あいまいさ」もまた「社会の闇」のせい、
そういうことにしておこう。