「生きる」ということをどれだけ深掘りしてきたか。
「生きる」ということとどれだけ向き合ってきたか。
それによって人生の見え方は大きく変わる。
上辺だけを取り繕って、何となく時を過ごしてきたら、その分だけ機会を損失しているのだ。
楽な選択肢ばかりを選び続けて、経験する機会を逃していても、そのことに気が付かずにいる。
例え機会を逃さざるを得ない状況に居たとしても、そこに葛藤していれば、「次はチャンスを掴み取る」という思いになることができる。
「自分の人生に責任を持つ」
そういう選択肢を選び取るたびに「魂のレベル」は上がっていくのだ。
10年、20年経てば大きく変わってくる。
姿形にも現れてくる。
「実力」というものは、残酷なまでに自分の現在地を的確に示す。
「人格」というものは、年をとるほどに残酷なまでにその人の本質を的確に示す。
みんながみんな、他人の中で生きている。
表向きにはしなくとも、心の中では他人を評価して他人に評価されながら生きているのだ。
だから「人間力」
魂のレベルを上げた先に身につく力、
それがあるかないかは、周りから見たら一目瞭然なのだ。
もしかしたら、自分だけが自分のことを過信しているのかもしれないし、逆に卑下し過ぎているのかもしれない。
自己評価と他者評価、
その間にあるギャップが大きければ大きいほど、苦しい思いをするようになる。
特に自己評価の方が高い場合、
自分ではうまくやっているつもりでも「報われない」と思い込む。
大抵の場合、どこか足りないものがあるのだ。
それを的確に捉える力もまた「人間力」なのだろう。
どこまでいっても、柔軟性を忘れずにいたい。
いつまでも自分を変えていける力強さを身につけたい。
「魂のレベル上げ」に貪欲であり続けたいのだ。
「これだけやったのだから、もう思い残すことはない」
私が求めているのはそういう人生なのだろう。
しばらく休憩をしてきた。
今年からは、また一つギアを踏み込む必要がある。
どこまで行っても終わりはないのだ。
心さえ若ければ、いつまでも成長することができる。
体は衰えても、それに引きずられて心まで動かさないようにはなりたくない。
全てを奪われて、全てを与えられて、
全てを支配されたとしても、
自らの意思に従って、自らの意思で行動を決めること、
そのためには、大いなるものに身を委ねる覚悟も必要なのだ。
自らの未来、将来、可能性に対する信仰心、
それを燃やし続けることが、私にとって「生きる」ということなのかもしれない。