振り返ってみると大きな転機だったように思う。
「理想」としていたものが一区切りついて、
新たな世界に飛び込んだ。
そこは「情熱」や「きれいごと」だけでは生きてはいけないような、
そんな大人の世界だった。
その世界に染まっていくにつれて、
私の中で失われていくものがあった。
「無垢な時代の余韻」を残しながらも、
気が付かない速度で蝕まれていく。
自身の「攻撃性」が露わになることで、
「蝕まれていること」に気が付く。
だけれどもどうにもならないのだ。
「浸食」は止まらない。
そのうち「理由」をつけるようになる。
「正当化」のための都合のいい理由だ。
「青臭さ」から逃げる口実として、
理論武装で固めた「正当化」
それを続けることで、
違和感を感じていたはずの行為が、
「ライフワーク」に変わっていく。
「汚れちまったな」
そんなことを言いながらも、
どこか居心地の良さを感じている
「青臭さ」に懐かしさを感じているうちはまだいいけれど、
しだいに「苛立ち」が募るようになって「嫌悪」に変わる。
その感情の正体は「嫉妬」なのだ。
いつまでも「青臭さ」を持ち続けてはいられない。
だけれどもそれに対する憧れはやまない。
ちゃんとした青春を全うして生きてきたのならば、
「きれいな思い出」として、
他人のそれすらも懐かしむことができる。
だけれども私にはそれができない。
自らの「青春」に欠落感を感じているから、
できないものは仕方がないのだ。
「25才」
ここ数年間で、確かなものだけでこの年齢に該当する女性2人ほどと関係が進みそうな機会があった。
タイプは全く違う二人だけれども、どこかまだ自分の将来に対して希望を見出しているような感覚を持っていた。
現代で言えば「妙齢」としてちょうど真ん中に当たる年齢だろう。
その溌剌とした魅力、
後先考えずに挑戦して、まだまだ失敗しても問題のない年齢、
私さえ覚悟を決めれば関係は進んだのかもしれない。
ただ、先に進んだところで結婚に至る可能性は低かったように思う。
やはり、年齢による価値観の変化というものは確かに存在するのだ。
自分がその年齢だった頃を思い返すと、一層それを感じる。
私が歳とともに積み重ねてきたものは小さいものではない。
もちろん個人差はあるだろうけれど、やはり相手との間に考え方の差を感じてしまう。
精神年齢の近い相手、
肉体的な年齢よりも精神的な年齢、
それが重要なのかもしれない。
私の精神年齢はいくつくらいなのだろうか。
だいぶ老け込んでいる気もする。
そうなるとだいぶ年上の方とご縁があるのかもしれない。
年上だと気兼ねなく接することができるのは、そういうことなのかもしれない。