心から尊敬できる女性との出会い。
もはや、私の年齢でそういう出会いは稀なのかもしれない。
そう思える同世代以上の女性は、たいてい既婚者だ。
そして、そう思える年下の女性にも、たいてい相手がいる。
いくら「草食化」が進んだと言っても、
素晴らしい女性を放っておくほど、男たちの狩猟本能は衰えてはいない。
そういうことなのかもしれない。
私は「私の彼女」のことを、心から尊敬している。
加えて、容姿も「美しい」と感じる。
あまり触れてはいなかったが、困ったことに、ニットのタートルネックを着ると強調されるくらい豊かなお胸をお持ちだ。
何度もカミングアウトしているように、私の趣向は「おっぱい星」にルーツがあるようで、もちろんそれが全てではないけれど、女性の胸は大きいに越したことはないと考えている。
さらに、私と同じようにだいぶこじらせた様子だから、久しく恋愛とは遠ざかっておいでのようだ。
不器用で一途で真っすぐな愛情(とはいっても性愛ではなく人間愛に近いもの)を向けてくれる。
私の理想にここまで当てはまる女性とは、なかなか出会うことはないと思う。
話を聞けば聞くほどに感じるのだが、彼女にとっても出会いはこのタイミングしかなかったようだ。
お互いがここ数年間の暗黒期を乗り越えて出会った。
何か「運命めいたもの」を感じる。
前に彼女のことを「女性として見られない」と書いたけれど、おそらくそれは誤りだった。
「尊敬」の感情が先に来ていることは間違いないけれど、しっかりと私は「彼女に触れたい」と思っている。
そして並んだ時の距離感から察するに、おそらく彼女も私に触れたいと思っているのだろう。
熱が伝わってくる。
それくらいの距離感で、私と彼女は並んで歩く。
まだ手もつないでいないけれど、距離はだいぶ近づいたと感じる。
「ゆっくりと進みたい」
それが彼女の希望だった。
その通り「ゆっくりと」私は彼女に歩幅を合わせて進んでいるつもりだ。
だけれども、次あたりには手を繋いでもいいのではないだろうか。
私は間違いなく、彼女の心と体に魅力を感じている。
そうなると、私の厄介な性質が顔を出しそうになる。
「自分の彼女に対する感情の出どころは、果たして誠実なものなのだろうか」
そんなことを考えているうちにチャンスを逃す。
それが私の常套手段だ。
私は、加害者性としての男性性に嫌悪を感じるあまり、この手の感情に対して潔癖がすぎるのかもしれない。
だけれども、彼女に対しては、自然と自身の感情の出どころに不信感を感じるところはない。
下地として「尊敬」がある。
私から見た彼女は、もちろん見た目も魅力的だが、「心の魅力」が圧倒的に優っているのだ。
そう思えるからこそ、
私は私の感情に安心して身を委ねることができる。
あとは「ゆっくりと」進むだけなのかもしれない。
自らの気持ちを確かめるための、あまりにも長い私の恋愛サイクル。
それに苦しめられてきたけれど、今はそれに救われている。
「焦る気持ち」は全くない。
彼女もまた、私と同じように、気持ちを確かめるための長い恋愛サイクルをお持ちだということが、私にはわかるから。
全てが味方に変わる。
嫌いだった自分も、変わりたかった自分も、
全てが味方に変わるのだ。
こういうことってあるのだな。
諦めなくて良かった。
今までがうまくいかなくて良かった。
私は彼女と出会えて良かった。
心からそう思う。