「忙しくありたい」という願望。
「忙しくなければならない」という強迫観念。
そういったものが、
人を駆り立てるのだろうか。
私は最近、「常に忙しい」と感じている。
確かに冒頭のような気持ちがゼロとは言わないけれど、
少々、違和感がある。
「私の現状」を細分化してみると、
意外と時間に余裕のあることに気が付く。
「転職して忙しい」といったところで、
勤務時間は転職前とそこまで大きく変わらない。
それどころかテレワークが増えたのだから、
通勤を含めた単純な拘束時間は、おそらく減っているくらいだ。
確かに勤務時間中は、次々と新しい仕事に放り込まれてヒーヒー言っている。
勤務時間中の疲労感は転職前の数倍はある。
息つく暇もないくらいに、休憩時間を削ってひたすら画面と向き合う日も少なくない。
そういった意味では確かに「忙しい」のだろう。
だけれども、その「忙しさ」は時間的な制約ではなく、
「精神的な疲労感が強い」ということが原因だと気が付く。
仕事以外の時間も確かに忙しいが、
私はもともと「忙しくしているタイプ」だ。
コロナ前は、これくらい忙しいことが当たり前だったように思う。
そうなると、だ。
私は「私が思っているほど忙しくはない」
冷静に考えるとそういうことになる。
メリハリをつけることができればいいのだろう。
おそらく「仕事の疲労感」をプライベートに引きずっているのだ。
「やらなければならないこと」は、次から次へと降り注いでくる。
だから、勤務時間を終えてもスッキリとした感覚がない。
ボーっとしているときに仕事のことが頭をよぎる。
そういうことは転職前と比べて増えたように思う。
私にとっての「漠然とした忙しさ」の正体は、
おそらく、ここにあるのだろう。
主体性を失った途端に、人はすべてが嫌になってしまう。
努力が後ろ向きに変わり、
いくら頑張っても「やらされている」と感じるようになる。
与えられた課題に対して、
どれだけ主体性を持って取り組むことができるのか。
そのためには、心と体を元気な状態に保つ必要があるのだ。
心と体、
そのどちらか一つでも疲弊してしまうと、
人は休息を求めるようになる。
「やりたかったこと」は負担となり、
「やらなければならないこと」に変わる。
仕事の時間以外は、仕事のことを考えない。
それくらい割り切った気持ちで生きることができれば、
おそらく疲労感は大きく軽減されるはずだ。
私は、「自分が思っているほど忙しくない」
まずは、そのことを肝に銘じて、気持ちに余裕を持つところから始めよう。
「忙しいこと」を居場所にしてはいけない。
「楽しいこと」を居場所にしよう。
どうせやることは変わらないのだ。
それならば、軸足は「楽しいこと」に移したほうがいい。
「私はたいして忙しくなどない」
そのはずだ。。。
「紅に染まったこのオレを慰める奴」は自分しかいない。