年末のまとめ記事にも書いたけれど、
おそらく昨年読んだ本の中では一番印象に残る作品だ。
久々の書評だ。
筆を執らずにはいられない力のある作品だった。
読んでからあまり日が経っていないから、記憶として残りやすいのは当たり前と言えばそれまでだが、ものすごく力のある作品であることに疑いの余地はない。
終始、陰鬱な雰囲気に包み込まれているが、
最後に「希望」がある。
その「希望」は人類にとって根源的なもの、
もしかしたら、この世の誰もがその「希望」を求めて、もがき苦しみながらも生を紡いでいるのかもしれない。
そう感じさせる作品。
光文社の亀山郁夫訳を読んだ。
一昨年は、亀山訳で同著者の『カラマーゾフの兄弟』を読み、かなりの衝撃を受けたものだから、次は『罪と罰』も、と思い手を出した。
やはりドストエフスキーはすごい。
思想犯として投獄され、シベリアで「生き死に」と向き合い続けたからこそ書ける文章の厚みがある。
未完の遺作となった『カラマーゾフの兄弟』のテーマは「自分の人生を愛するということ以上に、人生において重要なことはない」
そして『罪と罰』のテーマは「自分の人生に責任を持ち続けること」
私にはそう感じられた。
不思議なことにドストエフスキーを読んでいると、漫画『HUNTER × HUNTER』の描写が浮かんでくる。
おそらく作者である冨樫義博氏はドストエフスキーから大きな影響を受けているのではないか。
どこにもソースはないため、妄想にすぎないが、ある種のアプローチを重ねて、人生の本質について考え抜く先に、人はドストエフスキーにたどり着くのかもしれない。
例え、どのような境遇に生まれてきたとしても、どのような理不尽な目にあったとしても、自分の人生の責任を取れるのは自分だけ、
私はブログにそういう趣旨の記事をいくつか書いてきたけれど、本書はそれの裏付けというか、壮大な前振りを構えて、エピローグでそれを証明する形のスタイルだ。
「人間の醜さ」をとことんうまく描き出す。
その点でドストエフスキーの右に出るものはいない。
その境地に至るまでには、彼自身がどれだけ「己の醜さ」と向き合ってきたのだろう。
そして、どれほど人類の未来に対して絶望していたのだろう。
それでも彼は希望を見出すために筆を取り続けた。
『カラマーゾフの兄弟』のラストでは、人々はハレルヤと叫びながら、宿命に翻弄された「カラマーゾフ家の人生」を祝福する。
死を目前にして、ドストエフスキーは人類の未来に希望を見出せたのだろう。
陰鬱な彼の作品群、
最後は『カラマーゾフの兄弟』に繋がると思うと感慨深いものがある。
人は考えれば考えるほどに不幸になるのかもしれない。
答えの見つからない体と向き合い続けて、もがき苦しみながら生きていくことになる。
動物的本能に従って生きていれば、ある意味では幸せなのかもしれない。
高潔な精神を持つ、『罪と罰』主人公の妹であるドゥーニャ、そして『カラマーゾフの兄弟』3男であるアリョーシャ、
その姿にドストエフスキーの考える「人としての理想」があるとするならば、「無垢でありながら悪に染まらない」
そんなある種の動物的本能への回帰を彷彿とさせる。
人は自らの身を守るために、狡猾に人を陥れるのだ。
その醜さにまみれて時を刻んでいく。
それでも人生には希望がある。
人は、とことん地獄を見たとしても、奈落の底に突き落とされたとしても、「希望」という一筋の光を信じ続ける限りは救われるのだ。
ソーニャのラスコーリニコフに対する愛は、「神の慈愛」を象徴しているのだろう。
「愛の持つ力」を信じ続けて筆を執ったドストエフスキーの精神は、後世に大きな影響を与えている。
それでいて、彼は「神なき世界において、人はどう生きるべきなのか」という、壮大な問題提起をしている。
人の持つ力、愛の持つ力、
昨年私が掲げた目標の一つに「人類の未来に希望を持ち続けたい」というものがあった。
それはコロナ禍でなかなか希望を見出せない状況に端を発したものだったと記憶している。
そして今はバイオレンスな面で希望を見出しにくい状況だ。
ウクライナにおける戦闘が一刻も早く収束することを願う。
どんなに過酷な状況であっても、人類の未来に希望を見出す、見出し続ける強さ。
人類は、その強さをドストエフスキーから学ぶべきなのかもしれない。
紛れもない世界的名著だ。