「流行りのアイテム」を片っ端から身につけている女子を見て思ったこと

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先日電車で見かけた女子は、

「これでもか」というくらいに流行りのアイテムを身につけていた。

 

アームカバーに手持ちの扇風機、

動画をながら満員電車で周りをキョロキョロして、

まるで「私の振る舞いは間違っていないよね」

とでも言いたそうな目をしている。

 

流行りが一周回って昔に回帰するということはあるのだろう。

首から財布をぶら下げている幼稚園児のようなファッション。

暑いのに厚いものを身に待とうアームカバー。

オタクファッションと揶揄されたTシャツのインも今ではオシャレみたいだ。

 

周りと同じ格好をして、周りからはみ出さないようにして、他人を評価し、他人から評価される。

 

披露宴に呼ぶ友人のほとんどは、数年会っていないような人たち、

女子たちは、人の披露宴に参加した数だけ、自分の披露宴にも人を呼ぶ権利を手に入れるのだ。

 

「人間らしさ」

最近そのことについて考える。

 

機械的ではない不正確な「本能的なところ」を人間らしいと表現することが多いけれど、そもそも比較対象が機械になっていることは気にならないのだろうか。

 

他の動物と比べて人間はとても理性的だ。

だから、比較対象を動物にするならば「理性的」なところが「人間らしい」ということになる。

 

「人は社会的な生き物」

 

今、発達障害と呼ばれているものの多くは「コミュニケーション」に対する発達が定型ではないことを指す。

人は「空気を読むこと」を強いられて、そこから外れたら異端扱いされる運命にあるのかもしれない。

 

だから、冒頭の女子のように、周りをキョロキョロしながら、自分がいたんではないかを気にして生きる。

 

私はその女子の姿を見て、

「電車に乗っているだけなのに大変そうだな」とそう思った。

 

若ければ若いほど、未来に対して高い理想を持つ。

その「理想」が実は厄介で、自らの行動の枷になることは多い。

 

その厄介なものを、どれだけ若いうちに血肉に変えることができるかで、その後の人生は大きく変わるのかもしれない。

 

「信念は諸刃の剣」

 

何度も書き続けてきたことだけど、

信念は自らを傷つける刃にも変わる。

 

妥協しないことが美学だと思って、とんでもないところに辿り着いてしまうと、気がつくと一人ぼっちだったりもする。

 

自らをとことん追い込んでたどり着く場所。

そこにたどり着いた喜びを分かち合う相手がいないのであれば、その価値は半減してしまう。

 

結局のところ、人は人の中でしか生きることはできないのだ。

だから、周りのことを気にする必要がある。

しかし、その傍でアイデンティティを確立しなければ、誰の人生を生きているのかわからなくなる。

 

だからバランスが大事、

自分らしく生きられるバランスを模索しながら、チューニングを怠らない努力が必要なのだ。

 

環境に合わせて、自分も変わらなければならない。

その繰り返しでたどり着いた場所が、自分らしく輝けるものであれば、おそらくチューニングは間違っていなかったのだろう。

 

人に揉まれて、

人に育てられて、

人は生きていく。

 

そして気がつかないうちに、

人を育み、

人と繋がり、

人と感情を分かち合っている。

 

だから、冒頭の女子にとっては、

「流行りのアイテム」もまた、

そのためのツールなのかもしれない。

 

生き方は人それぞれだし、

同じ人でも時と共に変わっていく。

 

彼女は彼女なりに、

自らのバランスを探り当ててほしいと思う。

 

そして、私も常にバランスをとり続ける。

何度も地殻変動が起きている最中だ。

 

いつだって足元はグラグラしている。

その中を、力を抜いたり、力を入れたりしながら、

ちょうどいいところを模索している途中だ。

 

いつまで経ってもバランスをとり続ける。

それが「生きる」ってことなのだろうか。