その人が、その人らしく生きてきたか。
その人が、自分の言葉で話しているか。
そして、その人が本心からそのことを話しているか。
その辺りが重要なのだ。
人は、人の生き様に心を動かされる。
取ってつけたような社交辞令に心を動かされる人はいないだろう。
その人が差し出せるものを、惜しみなく提供する。
だから、人はその人の言葉に耳を傾ける。
そういうことなのだ。
若干のスキルやセンスは必要なのかもしれないけれど、語彙が少なくても、朴訥でも、心を動かされる話は決まって、その人の体験談だったりする。
人は誰しも脳内にアーカイブを設けており、そこに格納する知識に飢えている。
だから、その人にしか語ることのできない情報は価値を持つ。
テンプレ回答にうんざりして「このパターンか」と思うことは少なくないだろう。
我々は、言葉を都合よく扱うことでコミュニケーションを円滑に運ぶ術を身につけると同時に、表向きだけの関係に無駄な時間を割いているのだ。
私は「私の言葉」で話したい。
少なくとも、何かを代表するような場ではなく、自己責任で完結する場では、余計な駆け引きなどしたいとは思わない。
何のために目の前の相手と関係を結ぶのか。
「利害」のためだけではない。
相手への興味を全面に押し出して、相手の言葉に耳を傾ける。
そして、その言葉に対して、私の中から湧き出る言葉を提供する。
それを押し付けるのではなく、自分の意見として相手に伝えるのだ。
そうすると、相手も同じように少しずつうちから湧き出た「生の言葉」を提供してくれる。
表向きの言葉には潤滑油としての価値しかない。
その場を当たり障りなく過ごしたいのであれば、それも必要だけれども、そればかりに頼っていたら、ただ時間を浪費するばかりだ。
人と会うたびに、相手から何かしらの触発を受けたい。何かを学び取りたい。
私はそういう思いでいる。
そのためには、まずは自分から触発を与える言葉を提供したほうがいい。
それに呼応して、相手にもスイッチが入る。
「自己開示のメリット」
自分はこういうことを考えて、こういう思いで生きている。
それを相手に伝えることのメリットは、デメリットを軽く凌駕すると私は考える。
生き方に自信があればあるほど、その言葉は印象的に相手に届くだろう。
結局は、生き方が言葉に表れるのだ。
センスは、人に伝えたいと思うような生き方をする中で育まれる。
そして、言葉を伝えることにテクニックがあるのであれば、それは嫌味なく自己開示をするスキルなのかもしれない。
小手先だけで繕ったところで、
相手を惹きつけるものは「利害」だけ、
ビジネスではそれでいいのかもしれないけれど、プライベートまで、そんな対応を続けていて、何が楽しいのだろうか。
私はまだまだ人生を楽しみたい。
だから、人に話したいと思えるような生き方を目指す。
人に話すことで、さらに楽しくなっていく。
人との繋がりの中でしか、人が満たされることは難しいのだから。