変わってはならないもの。
そういうものは確かに存在していて、
「私の生き方」の根幹を支えているのだろう。
人は、あまりにも大きな経験をすると、
それをアイデンティティの一部とする。
そして、一度確立したアイデンティティは、その後も大きく変わることはない。
私は一度メンタルをやってしまって、大きく価値観の変化をせざるを得ない状況になった。
そこからは、ゼロから自らのアイデンティティを構築し直したかに見えても、実際のところ作り直した価値観は、根本的には元のものと、さして変わらないものだったのかもしれない。
「今の私」と「前の私」
ブログでそういう表現を使うことがあったけれど、両者の差は、私が思うほど大きくはないのだろう。
大きな差といえば、「努力は必ず報われる」という価値観を捨てたことくらいだろうか。
「報われなくても生きていくしかない。誰かが代わりに自分の人生を生きてくれることはないのだ」
私はなんだかんだで、私のことを認めている。
有森裕子さんじゃないけれど、よく頑張ってここまで辿り着いたと褒めたいほどだ。
私は私のことをめんどくさいやつだと思うと同時に、いいやつだとも思う。
おそらく私の前に他人として私が現れたならば、仲良くなるかどうかはわからないけれど、少なくとも「人として信頼はできるやつ」だとは思うだろう。
それだけのことを積み重ねてきた。
だから、自己肯定感が低いようでも高く、理想はわかりやすく高いのだろう。
だけれども、至らぬところは沢山ある。
そのことは強く自覚している。
だから、必要であれば自分が変わることを厭わなくなったし、誰かに合わせるための柔軟性を身につけた。
「今の私」は、再構築した結果として、例え出来上がったものが同じようなものだったとしても、
一度ゼロから価値観を作り直した成果なのだろう。
話が逸れてきた。
戻そう。
私は昔から「こだわりが強い方」だ。
自分で決めたことはやり通す。
その反面で、納得のいかないことが続くと簡単にモチベーションは下がる。
その狭間で揺れながら、ここまで辿り着いた。
世界は「自分のもの」ではない。
納得のいかないことに囲まれながらも、
「やらなければならないこと」はやらなければならないのだ。
だから、私は「やりたいことと、やらなければならないこと以外は極力やらない」
そんなテーゼを打ち立てた。
転職前は、概ねそれでも人生をコントロールできていたのかもしれないが、転職してからはそうもいかないことばかりだ。
加えて、結婚に向けて進む中で、思い通りにいかないことは増え続けている。
私はこれまで「コントロールできている」と思い込んでいただけで、「コントロールできる範囲でしか動いていなかった」のだろう。
そのことを痛感する日々だ。
そうなると、私も変わらないといけない。
だけれども、変わるべきだとは思っても、どうにも譲れないところが出てくる。
それが前述の通り、納得のいかないことに対するハレーションとして現れる。
自らの価値観、倫理観に照らし合わせて、「おかしい」と思うことに対しては、相手が誰であれ簡単には承服しない。
それが「扱いづらさ」と捉えられて、衝突が起きることは「しばしば」ある。
だけれども、私は私なのだ。
これまでの生き方に筋の通らないことばかりを続けていたら、誰の人生を生きているのかわからなくなる。
そこの線引きは守りながらも、周りと調和するために労を尽くす。
今のところ目指しているラインはそこのあたりだ。
人は年を取れば取るほど、周りの話に聞く耳持たなくなる。
素晴らしい人格の持ち主が、そのままずっと、素晴らしいままだとは限らないのだ。
筋を通すための「こだわり」を持ち続けながらも、
自らの人間性がおかしな方向へと進んでいないか。
その点は、よくよく監視せねばならない。
「自信」が「過信」や「盲信」へと繋がってしまったならば、自分ではおかしいことに気がつくことはできなくなる。
ゆめゆめ注意が必要だ。