婚活に勤しんでいた時の私は「女性」を「女性」としてしか見ることができていなかった。
女性を目の前にすると、この人は結婚相手として有なのか無なのか。
婚活ではない日常的な場面でも、妙齢の女性と接すると、そんなことばかりを考えていた。
そう言う時期もある。
ある種のノイローゼ気味だったのかもしれない。
「女性」を特別視するあまり、不自然なくらいに「誠実さ」を振りかざしてポルノを絶っていた時期すらある。
その時に書いた記事がいまだに検索流入のトップなのだが、読み返して見ると恥ずかしいことを書いている。
当時の私は、常に「女性」に対して何かを期待していたのかもしれない。
「童貞」だったのだから無理もない。
女性に対して理想と憧れを抱くことは、種の保存を目的とした遺伝子による指令なのだから抗う術などないのだ(ということにしておこう)。
しかし、結婚してしばらく経つと、私に見えていた女性を纏う「神秘のヴェール」は、いつの間にか消え去っていた。
それもそのはずだ。
体の構造こそ異なるが、男も女も大差のないホモ・サピエンスという種族の一員であることを私は知ってしまった。
今の私には妻がいて娘がいる。
日常的に女性に囲まれて、女性の表にも裏にも洗いざらい触れながら生活しているのだから、そこに特別な目を向けることの方が難しい。
加えて、既婚の私は女性たちに何かを期待することもない。
そうなると、今の私は女性に対して、ある意味では男性と同じように自然に接することができているのだろう。
不思議なことにポルノを見る目も変わった。
それを見て性的な興奮を全くしないというわけではないが、それを見ることの動機が薄れているように思う。
以前は性欲処理の他に、自らの理想や好みを把握するために必要なこと、というような変な使命感があったが、今はそれが全くない。
それは単に加齢からくるものなのか、それとも妻に対する罪悪感か。
はたまた娘が生まれたことで、画面の中の女優さんを将来の娘と重ねてしまうことによる嫌悪感なのか。
あるいは、その全てなのかもしれない。
いずれにしても、私は女性に対して、何か特別な期待をすることがなくなった。
それは私の人生に安定をもたらしていると感じる。
「やることは決まっている」
と言うような感覚だ。
私の中での戦争は終わったのだ。
女性チームの勝ちで、私の完全敗北と言っても良いのかもしれない。
私は女性に対して屈服した。
私自身がそれを望んで、妻と娘のために生きることを選んだのだ。
「負けるが勝ち」
これは私の勝利宣言である。
そう言うことにしておこう。