娘が何か言葉を発するようになった。
それも単発のものではなく、何か意味のありそうなくらいに長く言葉を発するのだ。
その意味を読み解くことはできないが、何かしらの意思を明確に示していることは間違いなさそうだ。
どんどん要求が明確になっていく。
こうやって自我が形成されていくのだろう。
歳とともに、自分の成長を実感する機会は少なくなっているけれど、娘の成長を通して、確かに時が流れていることを実感する。
時の流れるスピードは同じではない。
歳を取れば取るほどに、1年間の人生に占める割合が小さくなるのだから、1年間が短く感じることも頷ける。
極端な話、20歳の時の1年間と、40歳での1年間では、2倍ほど体感スピードが違うのかもしれない。
すぐに娘は私にもわかる言葉を発するようになるのだろう。
それは私に取っては一瞬の出来事のように思えるかもしれない。
しかし、娘にとってはとても長い道のりなのだろう。
体感スピードが違うのだ。
私と娘は、同じ時を生きているようで生きてはいない。世界の見え方が根本的に違うのだ。
そのことを理解して接しないと、どこかで大きな間違いをしてしまう恐れがある。
子供との歳が離れれば離れるほど、感覚の違いに戸惑いを覚えるのかもしれない。
まだまだ自分の意思も明確に示すことのできない娘が、いつから明確な言葉を発して、いつから私のことを言葉で言い負かすまでに成長するのだろうか。
その道のりは、娘にとっては長いが、私にとってはおそらくそこまで長くはないのだろう。
これから先の未来に想いを馳せるたびに、私は自分の役割が変わってきていることに気がつく。
私の人生は、自分の成長だけを追い求めるフェーズから、周りの人たちを育成する役割の方が大きくなってきたのだ。
とはいえ、自分も成長し続けなければ、育成する人たちから魅力的には映らないはずだ。
今まで以上に、目的意識を持って時を過ごさなければならない。
子供が生まれて初めて思う。
もう自分は子供のままではいられないのだと。
そういう自覚を持つことができただけでも、一つ先のステップに進むことができているのかもしれない。
子供の成長する姿から、多くのことを学ばせてもらう。
そこへの感謝を忘れずにいたい。