「文章による自己表現」は誰の精神をも解放しない

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村上春樹回転木馬のデッド・ヒート


以下引用

少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。

もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、

それは辞めた方がいい。

自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。

もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。

人は書かずにはいられないから書くのだ。

書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。

 

この本は初読だったのだけれども、

冒頭から衝撃的な持論が展開された。


少なくとも私はブログを書くことに、

「救い」を求めて執筆を始めた。


村上春樹氏によれば、

「文章による自己表現に「精神の解放」即ち「救い」はない。

それを目的とするならば辞めた方がいい」

そう断言している。

 

私にとって、

これは衝撃だ。


私の文章は、

村上春樹氏に少なくない影響を受けている。

文章の師匠と言っても過言ではないかもしれない。


その師匠から全否定されたようなものだ。


この短編が連載されていたのは1985年、

著者36歳、

作家としてはまだ売り出しの頃だ。


村上ワールド最初の作品と言われる

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

の発刊と同じ年に書かれたもの、


私は同作から『ねじまき鳥クロニクル』までの10年間によって、

村上春樹氏が「作家としての使命」を果たしたと考えている。


河合隼雄氏との対談集に詳しく書かれているが、

特に『ねじまき鳥クロニクル』は自身の暴力性と向き合う作品、

河合氏いわく「何かに憑りつかれたようだった」とのことで、

命を削るような執筆作業を経ての脱稿だったようだ。


本件はこの「使命を果たす前」の持論、

この10年を経て氏の考え方は変わったのではないか。

否定したい私はそう考えた。


しかし『回転木馬のデッド・ヒート

この作品は2004年に改訂されている。

私が読んだのはその改訂版だ。

 

そうなると氏の考えは、

この10年を経ても変わらないことになる。


前置きが長くなったが、

私が影響を受けた時点での村上春樹氏、

表題がその持論であることに疑いの余地はない。

 

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その上でこの言を考察したい。


回転木馬のデッド・ヒート


氏は同じく冒頭でこの作品について、

「ただありのままに事実を書くこと」

それを試みたと語っている。


知人から聞いた話を、

つじつまの合わないところも含めて、

そのまま記載したようだ。


もともと作品としてまとめるつもりはなかったけれど、

「文章」のほうが「世に出してほしい」と訴えかけてきたという。

だから導かれるように使命感でまとめたらしい。


「人は書かずにはいられないから書く」


その点については重々思い当たる。

少なくともここ2年ほどだろうか。

私は貪るように文章を書き続けている。


800日近く1000~2000字ほどのブログを毎日更新しているが、

ストックや没になったものは膨大だ。

おそらく公開したものの倍は文章を書いているだろう。

加えて日記などプライベートな書き物もある。


もちろん日によって偏りはあるけれど、

平均すると1日4000字と考えて800日で320万字、


文庫本1冊が15~18万字程度らしいので、

私はブログを始めてから、

文庫本にして大体20冊ほどの文章を書いていることになる。


その動機は「救い」にある。


きっかけはそうだった。

それは初期の記事を読むとよくわかる。

疑いようのない事実だ。


根幹には「救い」

今でもそれを求めているところがある。


だけれども思い起こしてみると、

「下手したら死ぬ」と言われる病気にかかった2年ほど前、

そのころから目的は変わっていたのかもしれない。


「より人生を濃く生きるために、

日常に浮かんでは消えてしまう、

そんな大事な言葉たちをカタチに留める作業」

それが私にとってのブログを書く目的、

 

言語化するとそんなところだろうか。


「書くこと自体には効用はないし、

それに付随する救いもない」


書くこと自体に効用はないけれど、

書くことによって「行動」は変わる。


「観念ではなく実践」


もしかしたら氏はそういうことを示唆しているのかもしれない。


「書く」それだけでは何も変わらない。

それはごもっともだ。


氏は「書くこと」を「精神の細分化」と表現しているが、

書くことによって認知のゆがみが是正される。

そして新たな一面を発見することはある。


人生の見え方が変わり、

それが「救い」に変わる。


そう考えると合点がいく。


私のブログ、


テーマは一貫している。

「私と世界との関わり方」


「生きた証」を残したいのかもしれない。

それがそのまま「救い」になるのだ。

「今はまだ」私は書かずにはいられない。


時折、頭の中に降りてくる言葉たち、


その多くは一瞬で消えてしまうけれど、

振り返ってみると、

「大事な気づきだったのかもしれない」

そう思うことは少なくない。


「人生をより濃く生きるため」に、

私は書き続けるのだ。

 

そこに「救い」があろうがなかろうが関係ない。


ちなみに本作はまだ冒頭しか読んでいない。

 

あまりにも強烈な書き出しだったので、

私も「書かずにはいられなかった」


もはやこれもある意味では病気なのかな。

 

スポイルされていく

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役割が人を形作る。


他者から要請されるものがなければ、

人はスポイルされてしまうのだ。


周りが何でもしてくれるものだから、

「幼稚的全能感」を捨てることができずに大人になって、

「できない自分」「ふがいない自分」

そういうものを受け入れることのできない子供の国の住人、


傷ついて、傷ついて、

傷だらけになって、

それでも生きていく覚悟を決めた時、

その時に余分なものを捨て去ることができるのだ。

 

なまじ小賢しいと、

大した努力もせずに色々なことができてしまう。


そうして思う。

「世界ってこんなものか」


その瞬間にその人の中での、

「世界」は広がりを持たなくなる。

「年」は取るけれど「時」は止まってしまうのだ。


だから「要請がある」って、

「何かを求めてもらえる」って、

とてもありがたいこと、

 

例えクズ人間からのアプローチも、

ある意味では糧になる。

「世界」を広げるための糧になるのだ。


「スポイルされていく」


ここ最近はそういう感覚が強くなっている。


このままだとダメになってしまいそうな感覚、

それを毎日のように感じている。


果たして私は「私の人生」を生きているのだろうか。

そんな疑問が積み重なっていく。


色んなものと折り合いをつけすぎて、

あまり踏み込まなくなってしまったな。


「人の熱意」に触れて感化される。


元来、負けず嫌いなところがあるから、

そういうことの多い人間だったけれど、

もはやそういうことはなくなった。


私の問題なのだろう。

心が動かなくなってしまったのは、

きっと私の問題なのだ。


心を動かさないように努めているうちに、

心は動かせなくなってしまう。


そのくせ、

降りかかる火の粉は容赦なく振り払う。

面倒に巻き込まれたくないからだ。


「安全第一」


その通りなんだけどさ。

もう一度、何か火を灯さないといけないのかな。

心に燃え上がるような何かを、


私の中に確かに存在したはずの、

ガツガツしたものが無くなってしまった。


もっとも自律神経のバカになってしまった体が、

無理することを許してはくれないのだけれども、


「今の私」と付き合いながら、

煮え切らない感情を飼いならして、

誤魔化しながら生きていくしかないのかな。


「手に入れたもの」は確かに多いけれど、

「失ったもの」の大きさを実感する。


もう一度10代、20代のバイタリティを手に入れられたら、

きっとその頃よりもうまくやれる自信はある。


だけれども、

それは今だから思うことであって、

当時の私にはそうすることができなかったのだ。


「スポイルされていく」


ある意味ではそれを受け入れていくことが、

年を取るってことなのかな。


明石家さんまさんのような貪欲さを、

30代の「今の私」は持ち合わせていないのだ。

 

私は少し、

色々なものを手放すのが早かったのかも知れない。

 

「手に入れる」

 

もう少しそちらに寄せて、

モードを切り替えてみるとしよう。

 

人は自分次第では、最後の瞬間まで、

何かを手に入れて生きていくことができるのだ。

 

それを最後の一瞬で、

パッと手放す最後、

 

そんな花火みたいな人生も、

風情があるのかも知れないな。

 

天童荒太『悼む人』

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直木賞受賞作、


随分前に読んだ本だが、

なぜか「読みたい」と心が問いかけてきた。

 

導かれるように購入し再読した。

紛れもない名作だ。

この時に読んで良かったと思う。


テーマは「死の恐怖、その根元と向き合うこと」

そんなところだろうか。


巻末の書評に印象的な言葉があった。

 

「死」は等しく訪れるが、

「死者」の扱いは決して等しくはない。


その人が歩んだ道のりによって、

周りはその人の人生を評価するのだ。


だけれども、

主人公である「悼む人」は、

その「死者」に差別をしない。


死の原因を掘り下げることなく、

「死者が誰に愛させて、誰を愛して、どのようなことをして感謝されたか」


ただそのことだけを書き留めて、

時には想像して「悼む」


「私は可能な限り、あなたが存在したことを覚え続けます」

それが彼に取っての「悼む」という行為だ。


そのような存在が世界に一人でもいるだけで、

人は救われるのだ。

この世に生きた証を残すことができるのだから、

 

話は変わるけれど、

私には思い出す故人がいる。

 

幼い頃に家族ぐるみの付き合いをしていた、

父母の友人夫婦だ。


毎年いっしょに旅行に行き、

子供に恵まれなかった夫婦は、

私を実の息子のように可愛がってくれた。


もうかなり前にはなるけれど、

その奥さんが病気で亡くなったとの連絡があった。

 

落ち着いてしばらくすると、

特に用事があったわけではないのに、

一人になった旦那さんからうちに連絡があった。

 

とても寂しい思いをしているようだった。


電話で「私と話したい」とのことなので、

母から電話を代わりしばらく話すと、

「遊びに来てほしい」と、

切にお願いされたことが記憶に残っている。


ところがその約束を果たす前に、

旦那さんも病気で亡くなった。


奥さんが亡くなってから、

そう年月は経っていなかったはずだ。

 

もしかしたら何か「虫の知らせ」があって、

「会いたい」と思ってくれたのか。

そう思うと今でもやるせない気持ちになる。


「遊びに行けばよかったな」

今でも私はそう思っている。

 

だけれども、

もしかしたらそのことで、

「会いに行けなかった」ことで、

私がご夫婦を「悼む」ことになっているのかな。

 

本人たちに知らせる術はもうないのだけれども、

そう思うと私も少し救われる。

 

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「自分の人生が無価値なんじゃないか」


人は「意味を求める生き物」だから、

「死」という現象よりも、

「死」によって「自己存在」が消滅する、

そのことを恐れているのかもしれない。


核家族化が進んで久しく、

孤独死」は今後も増えるかもしれない。


その人たちが最後に思うこと、

「果たして自分の人生にどれほどの価値があったのだろうか」


「命の重さ」

そればかりがお題目のように喧伝されている。

 

だけれども、

「命の使い方」

そのことにももっと目を向けるべきなんじゃないかな。


最後の最後にはさ。

向き合うことになるんだよ。

その時に後悔しても手遅れなのだ。


孫の産声を聞くと同時に旅立つ、

「悼む人」の母、


最後の最後まで自ら決めた「命の使い方」

それを貫いた。

 

人にはそれぞれ使命があって、

それに気がつくことなく終わる人生もあるけれど、

それを掴み取るために必死にもがく最後もある。

 

目の前にぶら下がった「にんじん」のように、

「もう少し、もう少し」って、

「使命」ってやつに生かされながら生きる最後、

 

今にも消えてしまいそうな命の灯火を、

大事そうに手で囲ってあげて、

それを見守りながら迎える最後の瞬間、

 

その時にそばに居てくれる人たちが、

手を握っていてくれる人が、

きっと人生で一番大事な人たちなのだろう。

 

「悼む人」

 

人知れず逝ってしまう人たちのセーフティネット

時代が希求してやまないある種の「救い」のような存在だ。

 

だけれども現実には存在しない。

私たちは自分で自分を「悼む人」を、

人生をかけて見つけなければならないのだ。

 

「優雅に過ごす」連休明けの朝に思うこと

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雅な街「神楽坂」

 

所用あって、

「カフェドクリエ」でモーニングを取りながら過ごす朝だ。

 

「カフェドクリエ」のどこが優雅なのだ。

 

そんな声があるかもしれないが、

普段は朝食を簡単に済ませる私、

 

斜向かいにはグラサンをかけたグラマラスな美女、

それを横目にコーヒーをすすっている。

 

私にとってはなんとも優雅な朝だ。

 

降り始めた雨に呼応して咲く傘の花たち、

そんな色とりどりの花たちが雲間に射す光に揺れる。

そんな幻想的な朝だ。

 

向かいの店、

ガラガラとシャッターを開ける女性の姿、

 

どうやら経済活動は、

今日も普段と同じように始まるらしい。

 

活気付く街を横目に、

ふと浮かぶ感情、

 

気持ちのいい「ごちそうさま」を言って、

この店を後にしたいな。

 

そう思った。

そのまま「Go To Home」とはいかず、

連休明けの憂鬱な仕事が待っている。

 

だけれども、

ここからがまたスタートなのだ。

 

来週は久々に女性とデートの約束を取り付けた。

もう半年以上も自粛を続けていたのだ。

 

この4連休で各地は、

今年一番な賑わいを見せたらしい。

 

痺れを切らしてきた。

 

みな、心を開放したいと望んでいるのだ。

「withコロナ」って言葉、

 

はじめは「耳障りの良いことを言って」

だなんて思っていたけれど、

 

「命の使い方」

 

時は有限で、

その瞬間は一度しかないのだ。

 

史上初めて中止になった甲子園大会、

それだけではない。

 

今年の高校3年生にとっては、

それこそ命をかけて取り組んできた3年間を、

不本意な形で終わらせることになったのかもしれない。

 

だけれども未来は続いていく。

今を積み重ねて一歩一歩進んでいくのだ。

 

隣で熱心にアルコールスプレーを吹きかけて、

テーブルを磨く可憐な店員さん、

1時間足らずの滞在でもう3度目だ。

 

日本人は勤勉なのだ。

言われなくてもマスクをするし、

言われたら多くはその通りに対策に励む。

 

たくさんの努力が重なって、

出来上がる未来がある。

 

だから「withコロナ」

私の行動もそちらに寄せることにしよう。

 

今を積み重ねて、

未来へと生きていくために、

 

自然と一緒に居られる相手、

心がそういう相手を求めているのだ。

 

今回はしっかりとチャンスを掴み取りたい。

そう思った朝だった。

 

「ごちそうさま」

今日も私の人生は続いていくのだ。

 

 

「偽装結婚」ではない結婚

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「そこに愛はあるんか?」


大地真央さんにそう問われたときに、

心から「あります」と言われる結婚、

全体の何割くらいがそのような結婚なのだろう。


年をとればとるほどに、

「結婚」はリスクヘッジになっていく。


条件で選んで選ばれる。


経済的に苦しいから、

子供が欲しいから、

同居人として許容範囲内だから、

社会的なステータスを得たいから、


様々な思惑が入り混じる。


偽装結婚


ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ

その中に登場して脚光を浴びた。


もしかしたら世の中の多くの結婚が、

実は「偽装結婚」なんじゃないのかな。


揺れる乙女心。

くすぐられる男心。


そんな駆け引きの末に、

相手のことを好きでたまらなくなる。

そういうのは20代前半までだ。


多くの人がそういうものを求めて彷徨った挙句に、

大多数は結ばれず、

年を経るとともに妥協点はどんどん下がっていき、

「縁」という言葉を巧みに利用して、

「落としどころ」に落ち着くのだ。


「この人を離しちゃいけない」と思った。

そういう話はよく聞くけれど、

「この人じゃないといけない」と思った。

そういう話は私の周りでは聞かない。


似ているようで大きく違う言葉、

前者の言葉は「条件」にかかるのだ。


結局は「愛」だの「恋」だのってものは、

「生活の知恵」なのかな。


「種の保存」を目的として、

脳から発せられる指令、


高尚なものでも何でもない。


ただ一つ確かな愛情があるとするならば、

それは「自己愛」だ。


いくら自分を嫌いになろうとしたって、

結局どこか自分の人生に期待をしているのだ。

 

「自分は幸せになれるはずだ」って、

「自分は報われるはずだ」って、


それが「自己愛」ってやつ、


「愛」なんてものが信じられないのであれば、

まっすぐ歪まないように、

まずは「自己愛」それを育ててやればいい。


「まっすぐな自己愛」


おそらくその先にしか、

「まっすぐな他者愛」なんてものは、

生まれるはずはないのだ。


自分が好きではない自分のことを、

好きになってくれた人を愛するためには、

自分を好きになるしかない。

 

自分は誰よりも「自分の努力」を知っている。

それと同時に「周りから見た自分」を知らない。

 

森山直太朗『生きとし生ける物へ』


「僕は君が思うような人間じゃない。

そうさそんな人間じゃない」

 

表には出さない。

そんな自分の醜いところを知っている。

 

だけれども当たり前のようにしている、

人に対する優しさには気がつかない。

 

自分のことを知った気になるということは、

自分を諦めるということ、

 

「結婚」ってものはさ。

 

きっと一番近くで、同じ目線で、

自分のことを見てくれる人、

お互いがそういう人になるってこと、

 

他人同士から対等な家族になる。

 

それができていれば、

きっかけなんてものはなんでも良いのかな。

 

夫婦って関係は、

なんとも不思議なものだ。

 

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「思想」のセキュリティ対策

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人というものは、

ある種「洗脳」されやすいものなのだ。


環境によって千差万別、

「夏がダメだったり、セロリが好きだったり」

好き嫌いは否めないのだ。


だから周りから愛情のある言葉をかけられて育てば、

「自己肯定感」は育まれるし、


罵詈雑言を浴びせられて育てば、

「攻撃的」になりがち、


大人になったから、

自分の意思で物事を判断しているつもりになっているけれど、

それって年を重ねたところで、

本質的にはあまり変わらないんじゃないかな。


「ネットワークの発達」により世界は繋がった。

だからこそ気を付けなければならない。


「検索」という行為は、

「意思」が「ある」ようで「ない」のだ。


きっかけはもちろん「意思」から生まれるのだろう。


だけれども「検索」

その作業自体はただの流れ作業だ。


流されるように情報に触れていって、

なんとなく「マジョリティ」に引き寄せられていく。


そうやって「世論」というものが形成される。


ステマ」なんて常套手段、

見えないところで当たり前のように横行しているのだ。


そして「意思のある検索」

関心事に答えを探して「検索」をする場合、


その場合は、

なおさら気をつけるべきだ。


人は自分の望む情報にばかりアクセスする。

自然と「情報」は偏るのだ。


「Aが正しくBが間違っている」という人もいれば、

世の中にはその真逆の主張をする人だっている。


だから自分の主張が「A」に寄っていれば、

調べれば調べるほどに「A」へと寄っていくのだ。


「自分は正しいんだ」って、

カオナシたちの言葉に後押しされて、

しまいには「A」が正義で「B」は悪だ。


そう主張して周りを顧みない、

そんなモンスターになってしまうこともある。


気を付けなければならない。


人は触れる「言葉」によって、

「思想」は大きく変えたり、

暴走させたりするのだ。


だから気持ちに従うばかりではなく、

「軸」を持つこと、

そして自分の中で「一線」を引くこと、


価値観のアップデートは必要だけれども、

アップデートの対象としない基幹部分、

そこに対するセキュリティは重要なのだ。


大事な部分に簡単に入り込まれてしまったら、

思想そのものをハッキングされてしまう。


「一線」を越えるような「言葉」は受け付けない。

心を動かしてやる必要なんてない。


それが「思想」のセキュリティ対策だ。

 

商談のみならず、

就活や婚活まで、


これからの時代は、

より一層、画面越しの情報に触れることになる。

そしてそれが大きな意味を持つ機会も増えるだろう。


セキュリティ対策はしっかりしておかないといけない。

 

魂の原風景

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「魂の原風景」


ある記事を読んでいて「面白い」と感じた言葉だ。


「思想のバックボーンとなるもの」


もっと踏み込むと、

「無垢な時期」に「感動したもの」「衝撃を受けたもの」

そう言い換えられるだろうか。


【私にとっての魂の原風景】

ゲーム:

ドラクエ」「FF」「ポケモン

パワプロ」「ウイニングイレブン


漫画:

「HUNTER x HUNTER」「ONEPIECE

NARUTO

ドラゴンボール」「スラムダンク


音楽:

BUMP OF CHICKEN」「19」「槇原敬之

GLAY」「ラルク

T.M.Revolution」「Mr.Children


本:

三国志」「ダレンシャン」

重松清」「富野由悠季


映画:

フォレストガンプ」「ショーシャンクの空に

マトリックス

 

アニメ:

ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」「ジブリ

ガンダム


スポーツ:

ヤクルトスワローズ」「ヴェルディ川崎

 


こんなところだろうか。


メジャーどころばかりで、

いかに私が「俗物」かということがわかるリストだ。


古典から何から漁ったり、

村上春樹さんの本を貪るように読みだしたのは、

30を過ぎて「今の私」になってからだ。


私は多感なお年頃には、

世間一般で流行っているものに影響を受けて育ってきた。


ある意味では、

それが地に足ついた私の「強み」でもある。


年を取ってからどんな文化に影響を受けたところで、

世間から離れて遠くに行ってしまう危険性は薄いのだろう。


芸術作品には「魔力」を秘めたものがある。

多感なお年頃にモロに影響を受けてしまうと危険なこともある。


そういうものを「魂の原風景」としてしまうと、

信仰めいた「魔力」に惹きつけられて地盤が不安定になる。


さらに踏み込んでしまって足場ごと崩れたら、

この世界に留まることは難しくなってしまうのだ。


簡単に情報にアクセスできる時代だからこそ、

気をつけなければならない。


「魂の原風景」


身近なものでいいのだ。

多くの人とそれを共有できるから、


好きな音楽を聞いたときに、

「バッハ」だとか「ハイドン」と言われたり、

好きな映画を聞いたら、

タルコフスキー」や「テオ・アンゲロプロス」なんて言われたら、

その時点で周りはシャットアウトだ。


「共通の話題」ってものは便利なもので、

社会で「居場所」を獲得するための便利な道具になる。


私は今の子供たちには、

「そのままでは生きていられなくならない限り」は、

みんなと同じように流行りのものに触れて、

みんなと同じようにそれを好きになって、

みんなの輪の中に溶け込んで欲しいと思っている。


「子供が子供ではいられなくなる時代」


きっとこれからの時代は、

危険な文化に魅了される子供が増えると思う。


「事情がある」場合は大人の出番だ。


子供同士では敬遠されるようなお話を、

たくさん聞いて寄り添ってあげればいいんじゃないかな。


「知らない人について行っちゃダメよ」みたいな空気、

確かにそうなんだけれどもさ。

子供が色んな大人に触れる機会は大事だと思う。


親や先生は「保護者」だ。

多くの場合は「保護者」としての接し方になる。

 

大人は子供の「セーフティネット

だけれども「保護者」では引っ掛けられない子供もいるのだ。


「バカな遊び」を教えてくれたり、

友達みたいに気軽に相談できたり、

時にはブレーキをかけてあげたり、

 

そういう大人との接触って、

どんどん減っているんじゃないのかな。

 

大人の目で見てあげれば、

子供の世界ではとてつもなく大きく思えた悩みも、

ちっぽけに見えることは多い。

 

だからその目線で伝えてあげられることがある。

上からではなく同じ目線で、

きっとそういうもの、


私に子供ができる予定は今のところ全くないから、

甥や姪にはそういう「保護者」ではない、

「ちょっと変なおじさん」でありたいと思う。

 

「魂の原風景」

 

世界の正体に興味を持ってしまったから感じるけれど、

私は「俗物」で本当に良かったと思う。