子供の頃に「お金を盗まれた」話

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小学校高学年の頃だっただろうか。

私は集合住宅に住んでいた。


小学校は住宅のすぐ近くにあったものだから、

同じ建物には同級生が多く住んでいて、

建物を駆け回って鬼ごっこをしたり、家に行ってゲームをしたり、

校庭でサッカーをしたり、児童館で時間を潰したり、そんな感じで遊んでいた。


きっかけは覚えていないけれど、

そこまで仲の良かったわけではない同級生をうちに呼んでゲームをしたことがあった。


その時に親はいなかったので、二人でゲームをしていると、

その同級生がウロウロとしているようだった。


私はゲームに夢中だったのであまり気にしなかったのだが、

しばらくすると彼は「用事を思い出した」と言って帰っていった。


そこから数日が経っただろうか。


古本屋で漫画を買おうと思って財布を取り出すと、

中身がすっからかんだった。


確かにあったはずなのに小銭まで含めてお金が全く入っていないのだ。

仕方なく購入をキャンセルして家に帰る。


「おかしい」と思って妹の財布も確認すると、

なんと妹の財布からもお金が無くなっていた。


「あー、あの時で間違いないな」と思い、

悔し涙を流しながら「たぶん、〇〇くんに盗まれた」と親に言う。


そのまま〇〇くんに電話をかけて「話したいことがある」と呼び出すと、

親から「この財布に見覚えはないか」と確認をしたが、彼は「知らない」の一点張り、

確かな証拠があるわけではないので、そのままうやむやになって終わった。


金額にして2000円程度だったかと思う。

だけれども、小学生にしては大金だ。


欲しかった漫画を買うことができなくなり、

同級生からお金を盗まれて、悔し涙を流した思い出、


不思議とそこから○○くんとあまり険悪になった記憶はないけれど、

古本屋に行くたびに思い出しては嫌な気持ちが顔を出していた。


ちなみに、高校の体育の最中に、

更衣室に置いていた財布からお金を盗まれたこともあった。

その時はお札だけを抜き取られていたので気が付くのに時間がかかった。

 

特に荒れていた学校ではなかったけれど、しばらくの期間頻発していたので学生の犯行で間違いはなかった。


人間というものは、年を取るごとに狡猾になっていくのだな。

高校生でこれならば、大人になったらどれほど狡猾になるのだろう。

 

「失うものがなくなる」と、人は己の欲望を満たすために何でもできるようになってしまうのだろうか。

 

抑圧された感情は、己のうちに止めることのできないくらいに膨張していき、人を傷つけたり困らせたりすることでしか、自らの存在価値を示すことができなくなる。

 

不当に手に入れた成果を正当化するために、どんどん心を誤った方向へと進めていき、気がつくと取り返しのつかない方向へと進んでいる。

 

子供の頃に私からお金を盗んだ彼は、風の噂ではよからぬ仕事に手を染めていると聞いたことがある。

 

彼は今、どこで何をしているのだろうか。

ちゃんと生きていてくれればいいのだけれども、

 

コミュニケーション不足が生み出す「無駄な時間」

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30を過ぎてから、精神的に一度やってしまったものだから、私の体は無理の効かない体に変わってしまった。

 

だから、睡眠時間や運動習慣、読書や学びなど「人間活動」に使う確保するために、タスク管理を厳格にして、それまでは浪費していた時間を圧縮することに努めてきた。

 

こうして私は「無駄な時間」に対して寛容さを失っていくことになる。

 

それは仕事にも影響を及ぼしてくる。

タスク管理の出来ていない状況に直面するとイライラして仕方がないのだ。

 

特に上からの指示だった場合に心は大きくささくれ立つ。

「無駄」を強要されることが苦手になってしまったのだ。

 

本当に必要なのか吟味されることなく降りてくる組織的な方針、

必要なのかどうかもわからないままに手を動かす。

 

その結果を分析することもなく、無駄の多いやり方を慣習として続けている。

 

無駄に項目の多いフォーマット、

電子で済むのに紙で提出、

チャットで済むのにわざわざ詳しい説明を求めて聞きにくる。

 

心を殺して言われた通りにしていれば楽なのだろうけれど、そこに対してストレスを感じるものだから、意見を述べて無駄な軋轢を生むことになる。

 

場合によっては、敢えて無駄な時間をかけているケースもある。

違う仕事を振られないように忙しいふりをするのだ。

 

その仕事にそんなに時間かかるの?って、そう思うことも少なくない。

 

1時間で終わる仕事があるとして、その精度を80%から90%に上げるために2時間かかるのであれば、仕事の内容にもよるけれど80%で十分なことは多い。

 

そこから先ははっきり言って自己満足なのだ。

 

チームでやる仕事の場合はより顕著になる。

とりあえず70〜80%でもいいから、早くあげて他の人からフィードバックをもらった方がいい。

そして自分もあがったものをチェックしてフィードバックする。

 

一人の頭で考えるよりも二人三人の頭で考えた方が精度が上がるのは明らかだ。

そっちの方がよほど短期間で精度の高いものが完成する。

 

要はコミュニケーションコストが高いかどうか。

自分もそうだし周りもそう。

 

コミュニケーションコストの高い人とはあまり関わりたくなくなる。

だからわからないことがあっても自己解決しようと効率の悪い仕事のやり方に終始する。

 

周りも自分もコミュニケーションコストが低ければ、気軽に聞いて、気軽に答える。

そうやって効率の良い仕事ができるのだ。

 

「無駄な時間」を減らすには、そういうところから始める必要があるんじゃないかな。

 

わからないことがあれば教えてもらって、素直に感謝を伝える。

何かを聞かれたら、力になれる範囲で誠意を尽くす。

 

その積み重ねの中で、業務自体も見直されていき、「この作業は無駄だよね」って議論につながっていく。

 

課題解決への障害、

その多くはコミュニケーション不足だ。

 

プライベートだってそう。

男女のすれ違いの根本要員はコミュニケーション不足、

 

失恋ソングなんか大体そうだ。

言葉ひとつ足りないところからすれ違いがいが生まれていく。

そのことに対する後悔を吐露するフレーズが必ずと言っていいくらい出てくる。

 

もっとさ。

バカになればいいんじゃないかな。

 

全部わかっている必要なんてないんだからさ。

相手への敬意を忘れずに、わからないことは素直に教えて貰えばいい。

そっちの方がよほど効率的だ。

 

人は「居場所」を失うことを恐れている。

だから「無能」だと思われることが怖くて教えを乞うことができない。

 

だけれども課題を先延ばしにしたところでさ。

いつまでも追いかけてくるのだ。

それならば早い段階で解消したほうがいい。

 

わからないのにわかったふりをし続ける人が「無能」なのだ。

わかろうとする努力を怠る人が「無能」なのだ。

 

社会はさ。

「無能」に対する認識を履き違えてはいけない。

 

まあ、向き、不向きはある。

何度聞いてもわからなかったり、何度も同じ間違いを繰り返すのならば、その仕事は向いていないのかもしれないけれど、

 

「感動グセ」をつけることの重要性

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人は「感動するために生きている」
そういっても過言ではないだろう。
 
「生きている実感」を最も感じられるものが「感動」には詰まっているからだ。
 
人の脳は「感動したこと」を重要な記憶として保存するようにできているらしい。
これは「感動」というものがいかに人生にとって必要かを示す証左でもある。
 
いつの頃からか。
私はテレビを見ていて「すごい!」とか「よっしゃー!」とか、一人でそうやって盛り上がっていることが増えた。
 
今の時期なんか特にそうだ。
毎日オリンピックを見ては「ドーパミン」をドバドバ出して歓声をあげている。
 
そうなってくると、その感動を与えてくれた選手のことが好きになる。
「感動」という体験を通して分泌される脳内物質によるものだろうか。
 
「この人は良い体験を与えてくれる人」だと、
半ば刷り込みのようにインプットされるのかもしれない。
 
冷静に考えてみると、この「効果」はすごい。
 
自分が感動するクセをつければ、すぐに人に対して好意を持つことができる。
逆に「感動させること」を意識して振舞えば、好意を持たれる可能性が高まる。
 
全てをコントロールできるわけはないけれど、
自分が周りを好きで、周りも自分を好きだなんて世界のほうが居心地は良いだろう。
 
脳が「感動」というものに支配されているのであれば、それをうまく活用しない手はない。
 
「心を動かす」
 
そのためには「苦労した経験」が必要だ。
触れる情報をきっかけに「経験」が呼び起こされる。
それによって「共感」が生み出されて心が動く。
そもそも琴線に触れるようなものがなければ心は動かない。
 
「オリンピックに全く興味がない人」はおそらく、
「これまでオリンピックで感動したことがない人」
 
人は「経験を信仰する生き物」だから、
経験したことのないものを信じることは難しいのだ。
 
それならば「心を動かすクセ」をつけたほうがいい。
 
人は「他人の嫌なところばかりに目を向けてしまう」から、どんどん「憎しみ」を増幅させていく。
 
その過程で「醜い自分」に対する嫌悪感まで増していき、自分のことまで嫌いになっていく。
 
素直に「すごい」と思って、
素直に賛辞を送って、
素直に心を動かすことができる。
 
「心の柔軟性」とでも言えばいいだろうか。
そういうものは重要だと感じる。
 
年を取れば取るほどに心は動かなくなり、
やがて手足も動かなくなる。
多くの場合、まずは心から動かなくなるのだ。
 
だから「感動グセ」
 
ミーハーだって何だって良い。
「きれいな方向」に心を動かすことができるのならば、
 
色んな人のお気持ちにばかり寄り添っていたらキリがないから、
都合の悪いことには多少蓋をして、素直に心を動かせばいい。
 
世の中には「いいおはなし」が溢れているのだ。
 
それを素直に見つめて、心を動かして、
「心が動いたこと」を人に伝えればいい。
 
人の心は「晴耕雨読」で満たされる。
それはそこに「感動」があるからだ。
 
日常に散りばめられた小さな幸せのカケラたち、
 
それを見逃すことなくかき集めて、
心を動かすための依り代にすればいい。
 
「都合よく生きる」
人生はそれくらいでちょうどいいのだ。
 

 

「おっぱい」を机の上に乗せながら仕事をしていた後輩の話

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少し昔の話、

職場の後輩である元関取の男が・・・

 

なんて書き出したら、おそらく10人中9人がこの記事を読むのをやめるだろう。

 

安心して欲しい。

れっきとした女の子の話である。

 

リクルートスーツを着て出社していた頃には、ボタンを少し甘めに掛けていたせいか胸元がはだけていた。

谷間が目に入るくらい豊満なバストを持つ彼女、

 

手伝っていた仕事が終わったので「終わったよ」と伝えにいくと、その「お胸」が重すぎて肩が凝るのだろうか。

立派な代物を2つとも机の上に乗せながら、手はキーボードをカタカタと動かしていた。

 

腕を絞り、グラビアのように強調される胸元、

私の目は「釘付け」になった。

 

こちらに顔を向けた彼女はニコリとしてこちらに体を向け、手を膝につくと「ありがとうございます」とお辞儀、

パイレーツの「だっちゅーの」みたいなポーズになる。

残念ながら胸元が窺えるような服装ではなかったが、私の視線は彼女の顔ではなく胸に「釘付け」だ。

 

それからは彼女の姿を見ると、胸にばかり目がいってしまうようになった。

おそらく彼女も気がついていただろう。

いや、むしろ狙っていたのだろうか。

 

あれは「武器の一つ」だったのかもしれない。

 

見事にそのバズーカ砲の直撃を受けて、私は少なからず彼女に優しく接するようになっていた気がする。

 

男は単純なもので、視覚で女性を判断するものだから、威力抜群のわかりやすい武器が効果的なのだろう。

 

漫画やアニメでは大抵、胸の大きな女性キャラが登場して、お色気パートを演出する。

たまにそういうシーンを入れることで、またこういうシーンがあるのではないかと読者の期待感を煽るのだ。

 

人は「感動」させてくれた対象に好意を抱く。

「興奮」もある種の「感動」だ。

そうすることで、そのキャラのファンは増える。

結果として読者を離さない効果が生まれる。

 

作者が望まなくても編集の意図でそういうシーンを当て込む作品は多いだろう。

いわば「エロを武器にする」という戦略の一つだ。

 

彼女が「天然」だったのか。

それとも「策士」だったのか。

それはわからないけれど、男は少なからず女性をそういう目で見てしまう。

 

今回のオリンピックでは、体操女子でレオタードを着ずに足まで覆うボディスーツをユニフォームとしたチームがあったようだ。

多くの女性は性的な目で見られることを望んでいない。

そして多くの男は女性を性的な目で見てしまうことがある。

 

そこに一つの対立が生まれるのだ。

「男チーム」と「女チーム」

そうやってチーム対抗戦に持ち込んでさ。

 

「男なんて」「女なんて」って、

互いに相手への嫌悪を募らせる。

 

確かに胸ばかりを見てしまうけれども、女性にしたって爪の長さを見て男が最近、女性との行為をご無沙汰なのかを判断すると聞いたことがある。

爪の長い男は彼女がいない可能性が高いから狙えると判断するらしい。

 

なんだかそっちの方がリアルで怖い。

胸ばかりを見てしまう方がよほど健全な気がする。

 

結局、相手の意図するところなんかわからないのだから、「見えてしまうもの」は見てしまっても仕方がないのかもしれない。

そこから先に進まない限りはギリギリセーフだ。

 

感情を暴走させてしまう危険性、

そういうものは身近に潜んでいるのだ。

十分に警戒しなければならない。

 

そうやってまた私は鉄壁の倫理観をさらに強化にして身動きが取れなくなる。

私が童貞なのは、もはや必然なのかもしれない。

 

自身に確かに存在する「加害者性としての男性性」に思い悩むふりをした臆病者、

 

私はただの臆病者なのだ。

 

 

「仕事」に身が入らない

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どこか「儀式」めいたもの、

一つの区切りをつけるためにはそういうものが必要なのだ。


転職を控え、その「儀式」たるイベントまで済ませた私は、どこか抜け殻のようになってしまった。

 

仕事をしていても身が入らないのだ。


少し前まではノスタルジックな気分に浸りながら、

残りの期間を楽しむかのように精力的に働いていた気がする。

 

今はノスタルジーは残りながらも、それに引っ張られ過ぎているのか。

あるいは、周りとの接し方に戸惑いを感じているのか。

どこか主体性を欠いた仕事をしている。


先日は「感謝をもって引き継ぎにあたる」だなんて書いていたし、

私は自分のことをそういう性質の人間だと思っていたけれど、

ふと「自分には関係ない」と手を抜いている瞬間があることに気付く。

 

確かにこの後に及んで私がでしゃばることは、後のことを考えてもあまり宜しくはない。

 

だけれども、そうした計算によるものではなく、単純に気持ちが切れているように感じる。

 

昨日のオリンピックサッカー、フランス代表、

日本が2点目をとるとオーバーエイジの選手は自ら交代を求めて引いていった。

怪我をした素振りだったけれど、

若い選手の出場機会を作るためだったのだろう。

 

「後に残る人たち」

もはやその人たちが主役なのだ。

 

今の職場における私の仕事は幕引き、

幕を下ろして、幕を上げる。

そして幕が上がるのを見届けたら去っていく。

 

章の変わり目になくてはならない存在だ。

そう考えれば「やりがい」を見出せるのかもしれない。

 

完全に気持ちの問題だ。

私もまだまだだな。そう感じる。


気持ちの糸がプツリと切れてしまったのだろうか。

いや、それとは少し違う気がする。


引き継ぎを行いながらも、何事もなかったかのように日常業務をこなしている。

この感じが決意を揺るがすのだろう。


「儀式」を経て、どこか「割り切った気持ち」でいるのに、やっていることは変わらない。

まるでこのままずっとここで働くかのようだ。

 

そのギャップが何だか「やる気」につながらないのかもしれない。


困ったものだ。


「強制力」がなくなると、こんなにモチベーション管理ができないのかと実感する。

私は自分のことを割と「ストイック」だと思っていたけれど、そうでもないのかもしれない。


中途半端に気持ちが離れてしまったものだから、

心と環境に乖離が生じている。

このままだとふわふわした感じで最後を迎えるのだろう。


何か自分で「変化」をつけていかなければならない。

徐々に「非日常感」を出していかなければならない。


「イレギュラーに対しても淡々と」

 

そういう習慣が身についてしまったからだろうか。

今の私に「非日常感」を感じさせることはなかなかに難しい。


この5年くらいで色んな経験をしてきたものだから、

何か「イレギュラー」があっても「こんなものか」って、どこか割り切ってしまうようになった。


何か予想を大きく裏切るような、

そんな経験を求めているのだろうか。


「健全」で「非日常」

そんな経験はどこかに転がっていないだろうか。

 

とりあえず今はオリンピックに夢中だ。

これも一つの「非日常」

 

それくらいでちょうどいいのかもしれない。

 

BiSH「アイナ・ジ・エンド」の声がすごい

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一度聴いたら耳から離れない声、

そんな声の持ち主だ。

ガールズグループ「BiSH」に所属するボーカルの「アイナ・ジ・エンド」

 

前身の「BiS」はアイドルながら全裸のPVを撮るなど、破天荒な運営方針で話題になった。

 

「BiSH」にしてもデビュー当初は自らを「クソアイドル」と名乗り、

ファンたちはそのクソを掃除する「清掃員」と呼ばれていたらしい。

 

そこからメジャーデビューを機に「楽器を持たないパンクバンド」へと方向転換し、

ライブ中のダイブやファンをステージに上げて脱がすなどの過激行為を封印したそうだ。

 

楽曲には過激さを引き継ぎながらもだいぶソフトタッチに変わり、

現在は本格的なライブパフォーマンスでそれ以上に人気を集めている。

 

私が彼女たちを知ったのは、アプリで知り合った女性がきっかけだった。

もう2年ほど前だろうか。

 

その女性はライブに通い詰めるほどのファンらしく熱心に楽曲を勧めてくる。

それにほだされて曲を聴いてみたら「アイナ」の声に衝撃を受けた。

 

結局、その人とのご縁はなかったけれど、

この声を聴くたびにその時のことを思い出す。

淡く輝く切ない思い出だ。

 

さて「アイナ・ジ・エンド」

「やはり出てきたか」ということで最近はソロでの露出が増えてきた。

 

まさに「唯一無二」といっていいくらいのハスキーボイス、

一度聴いたら忘れないくらいのインパクトがある。

希少価値というのはそれだけで武器になる。

 

加えて、名前のインパクトに挑戦的なルックス、

ウケる要素は満載だ。

 

ドラマの主題歌を歌い、

ついには「THE FIRST TAKE」にまで登場した。

今後はさらに活躍の場を広げるだろう。

 

アイナのインパクトが強いけれど、

それだけでなく「BiSH」の楽曲は良いものが多い。

 

今日はいくつか紹介して終わりたい。

 

アイナ・ジ・エンド『オーケストラ』

youtu.be

 

BiSH『プロミスザスター』

youtu.be

 

BiSH『FOR HiM』

youtu.be

「日本は平和だ」と思う

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開催するまで色々あったけれども、

ついに開会した東京2020オリンピック、


自粛の連休だったこともあり、

開会からテレビに「くぎ付け」だった。


私がリアルタイムで見たものだけでも、

史上初となる阿部兄妹の同日金メダルを筆頭に、

卓球・混合ダブルスのドイツ戦、最終セット大逆転勝利からの決勝で中国を破り金メダル!

ソフトボール・カナダ戦での劇的なサヨナラ勝ち、

男子サッカー・メキシコ戦勝利など日本は大躍進している。


コンディション調整や選手村の環境、

羽を伸ばすことのできない厳戒な行動制限、

直前まで参加を表明しなかった有名選手もいたほどだ。


見えないところでは未だに色々な思いが交錯しているのかもしれないけれど、

「画面越しに伝わる感動」は疑いようもない事実、


はじまってみれば「お祭りムード」で盛り上がっている姿に対して、

「日本政府のシナリオ通り」だなんて揶揄が目に付くけれど、

そんなことはアスリートたちには関係ない。

 

素直に健闘を称えて、素直に感動を分かち合えばいいのではないか。


「抑圧された感情」を「オリンピック中止」と同化させてしまうあまり、

素直にこの感動を分かち合うことができないというのはもったいない。


「今は」素直になればいいのだ。


増え続ける感染者、

名ばかりの緊急事態宣言、


感染拡大を抑えようと陰で奮闘する人たちや、

生活が困窮していく人たち、


「祭りの熱」が冷めた時に、国民は「厳しい現実」を突きつけられることになるだろう。

 

「それ見たことか」と飛び交うヘイト、

もしかしたら「感動」は余韻を残すことなく霧散してしまうのかもしれない。


それでも歴史は変わらない。

東京2020オリンピック」を開催したという事実は変わらないのだ。


それならば、その上に立って進むしかない。

あとから責任を追及したところで仕方がない。


秋に控える国政選挙、

そこで審判は下るのだろう。


開会式のその時まで競技場近くで「中止デモ」をしていた群衆、

開会を告げる花火が上がると一斉にスマホを取り出してシャッターを切る。


私はそれを見てなんとも微笑ましいと思った。


「ああ、居場所が欲しいだけなんだな」って、

「誰かと思いを共有したいだけなんだな」って、

「生きている実感が欲しいんだな」って、


行動は違っても、

抱えている感情はみんな同じなのだ。


「何者でもないこと」に辛くて耐えられないから、

そこに「アイデンティティを見出そうとしているだけ」


方向性は違っても、

みんなおんなじなのだ。


おそらく彼らの多くは今頃私と同じように、

日本選手の活躍を見てガッツポーズしていることだろう。

 

学生運動」と同じ、

学校や社会に対する不満から暴力行為にまで至った人たち、

一度騒ぎが落ち着けば、借りてきた猫のようにスーツ着て就職活動、

そのまま飼い慣らされたサラリーマン、

 

「生きている実感が欲しい」

「先に進んでいる実感が欲しい」

「正義に連なっている実感が欲しい」

ただそれだけ、


「生きるに足る理由」が溢れている。

日本は平和で良い国なのだ。