「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「360°評価」という地獄

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「360°評価」

通常は、上司が部下を評価するのが習わしだが、360°評価では、上司だけでなく同僚や部下など、仕事で関わる複数の人が一人の社員を評価する。

そんな制度だ。

 

数年前から私の勤める会社では、360°評価を導入している。

それが「直接的に人事考課に関わることはない」ということで実施をしているが、それもどこまで本当なのか怪しい。

匿名性がどこまで担保されているのかも怪しいから、上司に対して正直に低評価をつけようものならば、それがどこまで伝わるのかもわからない。

 

こんな「リスク製造機」のような制度を導入した理由がわからない。

現に、それで周りから低評価を受けたことをきっかけに周りとギスギスして、退職に至った同僚がいるくらいだ。

 

何度も記事にしているが、私は上司と折り合いが悪い。

自分のやり方通りに進まないと気が済まないマイクロマネジメントな上司。

自分の仕事が忙しいと周りに不機嫌を撒き散らす。

さらに上から言われたのか「部下の発信力を鍛えたい」と、ミーティングで強制的に業務改善提案を述べさせるというような持ち回りを行なっていたが、特に説明もなく自然消滅した。

 

それが評価に繋がるならばと、自主的に提案の機会を設けようとすると、自分が提案したことではないことには時間を割きたくないらしく、手短に済ませるように告げられて、まともなフィードバックもなく何事もなかったかのように次へと進んでいく。

 

ハラスメント防止策として、ミーティングで文章の読み合わせを行うことになった際には、「自分には関係ない」という態度で部下に読ませるだけで読み合わせには参加をしない。

 

自分の上司には媚びて、部下には指導することが当たり前だと思っているから、部下から間違いを指摘されると激昂する。

若手の発言に対して「そんな当たり前のことを聞くな」とマウントを取る姿からは、呆れるを通り越して哀れにすら感じた。

 

私から見れば、どうしてこんな人が管理職をやっているのかと思うくらいに適性がないと思うのだが、

360°評価でそれをそのまま書くわけにはいかない点にフラストレーションを感じている。

 

なんでこんな制度があるのだろうか。

何年も続いているということは、一定の効果があるということなのだろうか。

私にはとてもそうは思えない。

 

「みんながみんなのことを評価する」と聞くと、一見、公平なように感じるが決してそんなことはない。

SNSと同じだ。少しでも間違ったことをすると匿名で低評価をつけられるかもしれない。

360°評価は、そんな心理的安全性の形成とは真逆の効果を生み出しているように感じる。

 

低評価をつけたところで、上からは評価されている私の上司が行動を改めるとは思えない。

それならばリスクを回避して無難にやり過ごそうと考えるのが得策だ。

こうして私は、ボロクソに低評価をつけたい上司に対して無難な評価をつけるという行動を選択する。

 

一度は低評価をつけて保存した内容を、締め切り直前に無難に書き換えるのだ。

それ自体がストレス。

なんとも地獄みたいな誰も得をしない制度だ。

8月が終わる

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8月は長期休暇があったからか、あっというまに過ぎて行った印象だ。

相変わらず妻子に振り回されて生きている。

振り回されること。私の使命はそこにあるのだろう。

家族が朗らかであればそれで良い。

 

今年に入ってから私の周りで病気になる人が増えている。

多くは同世代だ。

私自身も体調が悪い時期が増えた。体に気を遣わなければならないお年頃なのかもしれない。

身内にも重篤な病気が出た。自覚症状のないままで別の不調を機に検査を受けたら、かなり進んでいたらしい。

 

「健康が大事」だと改めて感じた。

人生という長い道。長い、長いと思っていたら、終わりは思ったよりもすぐ近くにある。

舗装された道を順風満帆に進んでいたはずなのに、たどり着いた先は崖になっていたり、突如地震が起きて先の道が滑落したりと、そんなこともあるのだ。

 

私たちは目に見えないリスクを抱えながら生きている。「メメントモリ」をどんなに意識して生きていたとしても、急遽訪れた試練に立ち向かうことは容易ではない。

誤魔化しは効かない。その試練には、それまで培ってきた武器だけで立ち向かうしかないのだ。

 

8月は終戦の年。

だからこそ、このような感傷的な思いが込み上げてくるのだろうか。

「命と価値」が今とは比べ物にならないほど低かった時代を経て、人類は学んだ。

その進化の先にあるのが今なのだ。

 

だけれども、命の価値が高くなればなるほど、それを手放し難くなるのもまた皮肉なものだ。

決して、人類が勝ち取った今の時代を否定するわけではない。今も理不尽に戦闘に巻き込まれて命を失うような場所で生きている人はいる。

それは否定しようのない事実だ。

 

だけれども、敢えて「平和」という言葉を使わせてもらう。

その「平和」を享受した時代にあっても、いつ「命の終わり」と向き合うことになるのかはわからない。

それは、知恵を手に入れた人類が抱える永遠の苦悩なのかもしれない。

 

いくら延命に成功したところで、いつかは必ず終わりの時は来る。

その日まで悔いのないように生きる。

それが私たちが前向きに「終わり」と向き合うための唯一の準備なのかもしれない。

 

9月は忙しくなる。

一日一日を家族と共に大事に過ごしたい。

夏季休暇2026

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夏季休暇が終わった。

私にとっては珍しくハイシーズン真っ只中に旅行に出かけた。

 

「費用が高くて人が多い」

 

それだけで私は歩みを止める。

しかし私の妻はそれだけでは歩みを止めることはない。

自分の休みの都合と9月以降の仕事の都合を鑑みた上で、旅行に行くならば今しかないと結論づけて、半ば強引に私の手を引っ張り歩みを止めることを許さない。

 

こうして私たち家族は、1週間前に決まった旅行へと踏み出したのだ。

結婚しなければ取らなかった選択肢だ。

結婚したことで私の世界は広がった。

 

どちらかと言えば保守的な私の空いているスケジュールを見つけては、妻は断りもなく予定を詰め込んでいく。

小さい娘も同じ気質のようで、家にいる時間が退屈で仕方がないようだ。

 

人が死ぬ間際にする後悔として最も多いことが「もっと自分の心に従って生きれば良かった」ということだとよく言われる。

やりたいことを我慢して社会の歯車としてあてがわれた役割を全うしながら生きていく。

多くの人は、自分の心を押し込めて、扉のない部屋の中で、外に出る方法もわからないまま生きているのかもしれない。

 

そこから抜け出すためには、部屋の壁をぶち破るしかないのだ。

妻はナチュラルにそれをできる側の人間のようだ。

「できない理由」を探すより、「今できるならやってみる」という方針で生きている。

それにつられて私も部屋の外で活動する機会が増えた。

 

私は結婚して良かったと思う。

「結婚すると自由が失われる」と主張する人がいるけれど、私にとっての結婚は真逆だった。

 

結婚する前に感じていた閉塞感が恋しいとは思わないけれど、少しはのんびりする時間が欲しいと思うくらいに、妻と娘は私に次々と要求をふっかけてくる。

 

今回の夏季休暇も予定のない日は一日もなかった。

肉体的な疲労感は大きい。

だけれども、精神的には疲労が溜まりつつもリフレッシュできたのかもしれない。

 

「後悔のない人生」

 

それは最後の時を迎えた瞬間から手に入れられるものではない。長い日々の積み重ねの中でしか得られないものなのだ。

今の一日一日は、そこに向けて着実に歩みを進めているのかもしれない。

ファンダム経済

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本屋大賞を受賞して話題の朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』

まだ未読だがテーマが面白い。

 

「ファンダム経済」

 

いわゆる「推し活」を代表とした一部のコンテンツに対する大量な消費行動を指す言葉だ。

今は「夢を見にくくなった時代」だ。だから自分の夢を他者に委ねてそれを叶えることで擬似的に「夢を叶えた快感」を得る。

そこから得られた達成感が自らの存在意義へとつながるのだ。

 

失われたアイデンティティを回復するための代替行為。

今やそれが最もコスパの良い「夢の叶え方」なのかもしれない。

 

私の中に沸々と湧き上がるもの。

そういうものは確かにある。

もっと本を読みたいし、毎日ブログ記事を書くことを再開したい。

それが自分にとって精神の肥やしとなることは体験している。

だけれども今の私にはそれができない。

 

確かに忙しい。

常に何かに追われているように生きている感じがある。子育ては予断を許してはくれない。

私のリソースは枯渇しており、精神的な肥やしを得ることに時間を割く余裕がないように感じる。

 

その一方でソシャゲには時間を費やしている。

無駄な時間だと思いながらも時間を吸い取られて、時には睡眠時間を削るような愚行に至ることもある。

しかし、ソシャゲは私に効率よく達成感や自己効力感を与えてくれるのだ。

 

だから、大して課金はしていないが、私はソシャゲに貴重な時間を投資している。

そしてそれを止めることができない。

これはある意味では「ファンダム経済」の構造に取り込まれているのだ。

 

構造化されたものから逃れるためには覚悟が必要だ。

人は環境の変化にストレスを感じるもの。

そして、そのハードルは決して小さいものではない。

 

頭ではわかっているのに有意義な時間の使い方をできない。

目の前の「自己効力感」を満たすためだけに、実りのない作業に時間を浪費している。

 

私は私の未来にあまり期待をしなくなったのかもしれない。

子育てや仕事の疲労感に目を覆われて、先のことまで考える余裕がないのだろう。

だから、有意義だと思う方向に進むことができずに安易でコスパの良い擬似的な未来へと進んでいるのだ。

 

このままで良いとは思っていない。

しかし、この時間の浪費を止めることができない。

何か強制力を働かせた方が良いのかもしれない。

 

一歩が大事だ。

効果的な一歩を私は求めている。

そして、その一歩の踏み出し方を私は知っている。

あとは実行に移すだけなのだろう。

ミッドライフクライシス

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このブログでも過去に何度も取り上げたテーマ。

いわゆる「中年期の危機」というやつだ。

 

若い頃は天井が見えないから、自分の前には無限の可能性が広がっていると、朧げながら信じることができる。

ところが年齢を重ねるにつれて天井が見えてくる。

社会的な立場の限界や、体力の衰えを実感することで行動範囲の限界が見えてきたりと、様々な制約が生じることで「目標」を見失ってしまう。

 

今の私はかつてないほど、この言葉を痛感する。

相変わらず忙しい。趣味は山ほどある。

目標と言えるものも両手の指では足りないくらいに持っている。

それでも私は昔ほど私の人生に期待をしなくなった。

 

ある意味では、それが当たり前なのかもしれない。

結婚して子供が産まれて、行動は著しく制限される。

余剰リソースのほとんどは家庭に割かれることになり、自分のために使えるリソースなど雀の涙ほどしか残らないのだ。

 

我が家は共働きということもあり、「お小遣い制」ではないが、「お金」を「時間」に置き換えて考えてみると、「お小遣い制」のような生活をしている。

 

「お金」よりも「時間」が欲しい。

今の私が持つこの感覚は、ある意味では成熟の証なのかもしれない。

レールを大きく逸脱していた頃は、スキマ時間を埋めることに躍起になっていた。

今ではスキマ時間を捻出することに躍起になっているのだ。

 

人はいつだって無い物ねだり。

人生に「ちょうど良い塩梅」なんてものは存在しないのだろう。

例え、それを勝ち得たとしても、波風のない人生には「やることがない」と不満が生じる。

「どこかに不満を感じていなければ気が済まない」

人生とはそういうものなのだ。

 

さて、私は今の人生のどこに不満を抱いているのだろうか。

初めに思いつくのは「時間がないこと」だ。

常に何かに追われているような気がして落ち着かない。夜中に突然泣き出す子供に起こされて熟睡できる日は無くなった。

朝起きたら夫婦で朝食の準備と子供の保育園の準備に追われて、私が少しでも手を抜こうものならば、子供を産んでからブルーツ波を浴びて大猿に進化した妻から責め立てられる。

私はブルーツ波を浴びても大した変化がないようだが、妻は戦闘民族だったようだ。母は強い。

 

お互いにそれだけ余裕がないということ。

私が私用で家を空けることに対しては寛容なだけありがたい。

家によっては仕事の帰りが遅くなるだけで怒られるようなこともあるらしい。

 

なんだかテーマからずれてきたな。

今の私が人生に感じている制約は大きく二つだ。

 

①時間が足りない

②体力が足りない

 

①は前述のとおりだ。

②はしょっちゅう体調を崩していることが大きい。

子供の保育園が始まってから、これまで経験したことのないような不調を山ほど経験している。

おそらく一番の原因は、子供が保育園からもらってくるウイルスによるものなのだろう。

あとはストレスからか、アレルギーも悪化している気がする。

 

満身創痍で日々をなんとかやりくりしながら生きながらえている。

今の私はそんな感じだ。

反面、仕事では天井を感じている。

今の環境に不満がないと言えば嘘になる。

だけれども、その環境を抜けて新しい環境に飛び出すリスクを取る余裕はない。

 

雑多に書き連ねてきたが、今の私が感じるミッドライフクライシスのような感覚。

その正体はこんなところだろうか。

私が望んで進んだ先の世界。

私はその世界を確かに踏み締めて生きているのだ。

イライラが止まらない

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更年期だろうか。

最近、些細なことでイライラして、尚且つそれをコントロールすることが難しい。

原因を考えてみる。

 

子供のイタズラが度を超えてきたことはあるだろう。

片付けをするたびに別のところを荒らしてまた片付ける。全くキリがない。

寝ていると襲いかかってきて休む暇もない。

ひっきりなしに冷凍庫を漁っては、アイスや焼きおにぎりを引っ張り出して「食べたい」と私の顔に押し付けてくる。

まさにモンスターだ。

 

仕事のストレスが大きい。それもあるだろう。

まとまりかけていたことが鶴の一声でひっくり返されて白紙になる。そんなことが続いた。

その度に社外を含む各社に謝罪を入れるのが私の役割だ。

そして、土日も常に連絡があるかもしれない環境で生活をしている。心が休まらない。

 

冷静に考えてみると、ただのストレス過多のようだ。

私はなんでこんなに忙しく生きているのだろうか。

生き急いでいる様な気がする。

あるいは、そういう生き方しかできないのだろうか。

少し落ち着いたら出口戦略でも考えてみるか。

いわゆるFIREだ。

あと10年も働けば、それが可能になるだろうか。

 

完全に仕事を辞めなくても良い。

気持ちの面で手放すことができればだいぶマシになるだろう。

直近の10年で私の人生は全く別物に変化した。

ここからの10年でまた大きな変化が訪れるのだろうか。

そして、その変化の先に待ち受けているものは何か。

それが少し楽しみだったりする。

 

漫然と時を過ごす様なことはしない。

それだけでも積み上げる10年に価値は生まれるはずだ。

希望を持ち続けろ。それだけ忘れなければ人は幸せに生きていけるのだ。

 

「俯瞰」と「主観」の使い分け

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ありとあらゆることが私の頭脳を揺り動かす。

まるでノイズの様に歪な音を立てて「キリキリ」「ザー」と、私の中に入り込んでくるのだ。

 

私にはそれを遮断する術が必要だ。

だから私は「主観」を封印して「俯瞰」に舵を切る。

 

たとえそれがどんなに些細なものであっても、人は判断をするたびにリソースを擦り減らしていく。

だから、スティーブ・ジョブズやバラク・オバマは服装のコーディネートにそのリソースを割かないために毎日同じ服装をしていたということは有名な話だ。

 

今の私。

生活環境の変化に伴い、常に何かに追われている様な感覚がある。

常に気を張っていなければならない様な感覚がある。

外にいても家にいても落ち着かないのだ。

 

本職に加えて始めた副業のようなもの。

いつ来るのかもわからない連絡に対応することが求められる。

そして娘のイヤイヤ期。

子育ての負荷は右肩上がりに進んでいく。

 

生まれたばかりの睡眠不足に「想像していた3倍」の負荷を感じていたが、それはまだ序の口だった。

そこから負荷は増えていき、今は「想像していた30倍」くらいの負荷を感じている。

 

ベテランママさんの話では、今のイヤイヤ期ですらまだ可愛いもので、小学校に通ってからも苦労は続くし、思春期がピークだと言う人までいる。

つまり、社会的に独り立ちするまで子育ての苦労は絶えないのだ。

 

もちろん、その分、喜びもある。

今の生活をブログを書き始めた頃の私から見たら、天国の様に見えるのだろう。

そう。今の生活は、私が望んで掴み取ったものなのだ。

 

さて、前置きが長くなった。

私は「俯瞰」と「主観」を自由に使い分けできる様になりたいと思っている。

「主観」を意識をONにしている状態としたら、「俯瞰」は意識をOFFとまではいかないがオートモードにしている様なイメージだ。

車のギアをニュートラルに入れている様な形で、特に思考のリソースを使わずに目の前のタスクを淡々とこなせる状態を指す。

 

意思決定に必要となる「主観」と、それを必要としない「俯瞰」を使い分けることができれば、思考のリソースを効率よく使える様に思う。

具体的な方法は思いついていないが、絶えず浮かんでは消える思考の波をシャットアウトすることができれば、これを実現できるのではないだろうか。

 

「デフォルトモードネットワーク」

 

人は、ぼんやりとしている時間に、思考の整理を行う機能が働くらしい。

その状態をデフォルトモードネットワークという。

つまり、「考えない時間」は脳にとって無駄ではないのだ。

私の考えている「俯瞰」の状態はこれに近い。

 

現代人は隙間時間さえあれば常にスマホをいじっている。だからデフォルトモードネットワークがONにならない。

常に何かに追われる様な感覚。

その正体は、自ら作り出す「仮想の忙しさ」なのかもしれない。

 

慢性的な認知負荷を減らすためには、どうしたらいいのか。私には意図的に考えることをやめる時間が必要なのだ。

そのための具体的な対策を考えて、行動に移さなければならない。