「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

【プロ野球2026】石川雅規引退!

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ヤクルト1-3中日

 

今年のホームゲーム最終戦が終わりました!

長年スワローズを支えてくれた石川雅規の引退試合です。

 

46歳でプロ25年目のシーズン。

スワローズ一筋で戦い続けてくれました。

プロ野球記録となる新人から24年連続での勝利!

無事是名馬を体現するような選手でした。

通算勝利数は188勝です。200勝を期待されていましたが、ここ3年は勝ち星をなかなか積み上げられませんでした。

それでも戦力として投げ続けてくれましたが、今年先発した試合では打ち込まれて、そこで引退を決意したとの本人談です。

 

私が球場に足を運ぶようになった頃から常に石川がチームを支えてくれていました。

初めて買ったユニフォームも石川でした。

167cmの小さな体を目一杯使って「いくら打たれても点を取られなければ良い」という貫禄と球界随一の投球術で、ここまで現役を続けてきました。

 

彼は技巧派ですが、一番の球はストレートです。

球速以上に早く見える一級品のストレートは130km台ながら空振りを取れる魔球でした。これを軸に打者を翻弄して打ち取るスタイルだからこそ、長く現役を続けられたのだと思います。

 

スワローズにはいつも石川がいた。

私にとってはそんな印象です。

 

引退試合となった最終戦。

結果は残念でしたが、24年連続で安打を放った石川らしく、代打で打席に立ちそのまま登板。

相手のお膳立てもあったのかもしれませんが、最後の投球は空振り三振で締めくくりました。

 

石川雅規のいないスワローズ。

それは多くのファンにとって未知の領域なのかもしれません。

これだけの選手ですから、即コーチの話もあるかもしれません。

どのような形であれチームに残ってもらえるならば、ファンとしてこれほど嬉しい事はないです。

 

25年という途方もない期間を厳しいプロの世界で戦い切ったのは見事としか言えません。

本当にお疲れ様でした。

そして、これからもスワローズをよろしくお願いします。

「AIの解答は正しい」という先入観

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「ハルシネーション」

 

AIはもっともらしく嘘をつく。

正確に言えば、AIには「嘘をつこう」という意思はない。にもかかわらず、事実ではないことを、あたかも正しいかのように文章にしてしまうことがあるのだ。

 

そして、その最適解が人の求める水準に達していないと、それはAIがついた嘘になる。

あたかも正解のように、あたかも間違いなど微塵も感じさせないように、AIがもっともらしく嘘をつく結果となるのだ。

 

AIは、これまで入力したパーソナリティを記憶している。会話をしながら回答してもらえる機能を実装しているAIまであるから、意図しないパーソナリティをインプットしているケースがある。

 

試しにうちの子供とAIを会話させたことがあった。

その時に子供が自分の名前を言っていたことを記憶しており、後のやり取りで、うちの子供の名前が表示された時はゾッとした。

気がつかないうちに、私たちはAIにとんでもない量の情報提供をしているのかもしれない。

 

話を戻そう。

「AIはもっともらしく嘘をつく」

 

少し前に、巨人の阿部慎之介監督が娘への暴行を行ったとして監督を辞任した事件があった。

その時に娘さんはAIに相談をしており、AIの解答は「すぐに警察を呼んだ方が良い」というものだったと記憶している。

それを行動に移した結果、話は大事になり騒動にはまだ発展した。

詳しい状況はわからない。警察を呼ぶのが正しいくらいの有様だったのかもしれない。

 

しかし、その後に娘さんは自分の行いを悔いて父を擁護するような手紙を公開している。(そこまで監督側の根回しだとする邪推もあるが、それを言ったらキリがない)

 

何を書きたかったのかというと、私たちは自分の頭で考えることを放棄しつつあるのではないかという危惧についてだ。

まだまだ私のようなAIアンネイティブ世代ならばマシかもしれない。

しかし、時代が進むに連れてAIに相談することがデフォルトスタンダードになる事は間違いない。

 

AIに相談することで失敗を回避しようとする。

そうなると、それでも失敗した場合の責任の向け先はどこになるのだろうか。

本来は「自分」に向くべきだ。

しかし、今の若い世代を見ていると、どこか失敗の責任を自分が引き受けるという感覚が弱いように感じる。

 

「AIがまちがえたのだから私のせいではない」

いや、それはAIを信じたあなたの責任だ。

 

問題なのは、自分で考えた上でAIを使うのではなく、AIの回答を「自分の判断」に置き換えてしまうことなのだろう。

 

極端に失敗を認めない時代の先にあるものは、無気力だ。

主体性を失った先にあるものは、生きる気力の喪失だ。

 

よく言えば、波風立たせないことばかりが美徳となる時代。

どこかせせこましく、AIの言いなりで責任転嫁に躍起になる。

そんなことが起きているように感じる。

 

私たちは、そんな時代を自分らしく悠々と生きることができるのだろうか。

歳をとったことを感じる日々

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気候が安定しないからか体調がすぐれない。

それでも娘は元気満々に暴れ回っている。

 

気候の変化などお構い無しに生きていた時期が私にもあったはずだ。

体調不良の言い訳など探す暇もないくらいに日常が輝いて見えていた。

そんな時期が私にもあったはずなのだ。

 

いやでも「自分の気持ち」と「娘の姿」を比較する。

そして「歳をとったな」と感じる。

 

40を過ぎて育児に奮闘する。

私の元気は徐々に失われて行くが、娘の元気は止まることを知らない。

まるで私の元気を吸い取っているかのようだ。

 

自分の未来よりも娘の未来に想いを馳せることの方が多くなった。

ある程度、天井が見えてきた私の人生。

それと比べて無限の可能性が広がる娘の人生。

どちらにチップをベットするかは答えるまでもない。

 

「子供がいる」ということは幸せなことなのだろう。

自分の人生の先が見えてしまったとしても、叶えることのできなかった夢を託す対象がいる。

もちろん、子供と私は別の人格だ。自分の叶えられなかった夢を、そのまま娘に背負わせたいわけではない。それでも、娘が何かに挑戦しようとしている姿を見ると、「自分もまだ何かできるのではないか」と思わされる。

 

いわば、推し活のようなものか。

そう。私は娘という「推し」を育てているのだ。

自分の夢を託して。

育児というものは、人生の全てを賭けた「推し活」である。そう考えるといくらか面白味が出てくる。

 

私は歳をとったのだ。

それを素直に認めることができるのは、私に子供がいるからなのかもしれない。

 

「やる気はあるが体が動かない」

 

若い頃は、そんなことがあるものかと思っていたが、歳をとってみてわかる。

そんなことは当たり前のように存在するのだ。

メンタルをやってしまった30そこそこの頃でさえ、新しいことに挑戦するだけの気力と体力はあった。

 

現実に立ち向かうために、がむしゃらに足掻くだけの勇気と希望があった。

それを燃料として倒れるまで動くことができた。

今はとてもそれをできる気がしない。

 

初めは体が動かなくなり、やがて心も動かなくなる。いや、逆なのかもしれない。

そんなことはどっちでも良いのだ。

 

自分を見つめ直して、手の届くところから新しい挑戦を始めて行く。

まだ手足が少しでも動くうちに動かないと、完全に動くことができなくなってしまうかもしれない。

 

漠然とした危機感。

それすら失ってしまう前に。

何か行動を変える必要があるのだ。

「360°評価」という地獄

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「360°評価」

通常は、上司が部下を評価するのが習わしだが、360°評価では、上司だけでなく同僚や部下など、仕事で関わる複数の人が一人の社員を評価する。

そんな制度だ。

 

数年前から私の勤める会社では、360°評価を導入している。

それが「直接的に人事考課に関わることはない」ということで実施をしているが、それもどこまで本当なのか怪しい。

匿名性がどこまで担保されているのかも怪しいから、上司に対して正直に低評価をつけようものならば、それがどこまで伝わるのかもわからない。

 

こんな「リスク製造機」のような制度を導入した理由がわからない。

現に、それで周りから低評価を受けたことをきっかけに周りとギスギスして、退職に至った同僚がいるくらいだ。

 

何度も記事にしているが、私は上司と折り合いが悪い。

自分のやり方通りに進まないと気が済まないマイクロマネジメントな上司。

自分の仕事が忙しいと周りに不機嫌を撒き散らす。

さらに上から言われたのか「部下の発信力を鍛えたい」と、ミーティングで強制的に業務改善提案を述べさせるというような持ち回りを行なっていたが、特に説明もなく自然消滅した。

 

それが評価に繋がるならばと、自主的に提案の機会を設けようとすると、自分が提案したことではないことには時間を割きたくないらしく、手短に済ませるように告げられて、まともなフィードバックもなく何事もなかったかのように次へと進んでいく。

 

ハラスメント防止策として、ミーティングで文章の読み合わせを行うことになった際には、「自分には関係ない」という態度で部下に読ませるだけで読み合わせには参加をしない。

 

自分の上司には媚びて、部下には指導することが当たり前だと思っているから、部下から間違いを指摘されると激昂する。

若手の発言に対して「そんな当たり前のことを聞くな」とマウントを取る姿からは、呆れるを通り越して哀れにすら感じた。

 

私から見れば、どうしてこんな人が管理職をやっているのかと思うくらいに適性がないと思うのだが、

360°評価でそれをそのまま書くわけにはいかない点にフラストレーションを感じている。

 

なんでこんな制度があるのだろうか。

何年も続いているということは、一定の効果があるということなのだろうか。

私にはとてもそうは思えない。

 

「みんながみんなのことを評価する」と聞くと、一見、公平なように感じるが決してそんなことはない。

SNSと同じだ。少しでも間違ったことをすると匿名で低評価をつけられるかもしれない。

360°評価は、そんな心理的安全性の形成とは真逆の効果を生み出しているように感じる。

 

低評価をつけたところで、上からは評価されている私の上司が行動を改めるとは思えない。

それならばリスクを回避して無難にやり過ごそうと考えるのが得策だ。

こうして私は、ボロクソに低評価をつけたい上司に対して無難な評価をつけるという行動を選択する。

 

一度は低評価をつけて保存した内容を、締め切り直前に無難に書き換えるのだ。

それ自体がストレス。

なんとも地獄みたいな誰も得をしない制度だ。

8月が終わる

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8月は長期休暇があったからか、あっというまに過ぎて行った印象だ。

相変わらず妻子に振り回されて生きている。

振り回されること。私の使命はそこにあるのだろう。

家族が朗らかであればそれで良い。

 

今年に入ってから私の周りで病気になる人が増えている。

多くは同世代だ。

私自身も体調が悪い時期が増えた。体に気を遣わなければならないお年頃なのかもしれない。

身内にも重篤な病気が出た。自覚症状のないままで別の不調を機に検査を受けたら、かなり進んでいたらしい。

 

「健康が大事」だと改めて感じた。

人生という長い道。長い、長いと思っていたら、終わりは思ったよりもすぐ近くにある。

舗装された道を順風満帆に進んでいたはずなのに、たどり着いた先は崖になっていたり、突如地震が起きて先の道が滑落したりと、そんなこともあるのだ。

 

私たちは目に見えないリスクを抱えながら生きている。「メメントモリ」をどんなに意識して生きていたとしても、急遽訪れた試練に立ち向かうことは容易ではない。

誤魔化しは効かない。その試練には、それまで培ってきた武器だけで立ち向かうしかないのだ。

 

8月は終戦の年。

だからこそ、このような感傷的な思いが込み上げてくるのだろうか。

「命と価値」が今とは比べ物にならないほど低かった時代を経て、人類は学んだ。

その進化の先にあるのが今なのだ。

 

だけれども、命の価値が高くなればなるほど、それを手放し難くなるのもまた皮肉なものだ。

決して、人類が勝ち取った今の時代を否定するわけではない。今も理不尽に戦闘に巻き込まれて命を失うような場所で生きている人はいる。

それは否定しようのない事実だ。

 

だけれども、敢えて「平和」という言葉を使わせてもらう。

その「平和」を享受した時代にあっても、いつ「命の終わり」と向き合うことになるのかはわからない。

それは、知恵を手に入れた人類が抱える永遠の苦悩なのかもしれない。

 

いくら延命に成功したところで、いつかは必ず終わりの時は来る。

その日まで悔いのないように生きる。

それが私たちが前向きに「終わり」と向き合うための唯一の準備なのかもしれない。

 

9月は忙しくなる。

一日一日を家族と共に大事に過ごしたい。

夏季休暇2026

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夏季休暇が終わった。

私にとっては珍しくハイシーズン真っ只中に旅行に出かけた。

 

「費用が高くて人が多い」

 

それだけで私は歩みを止める。

しかし私の妻はそれだけでは歩みを止めることはない。

自分の休みの都合と9月以降の仕事の都合を鑑みた上で、旅行に行くならば今しかないと結論づけて、半ば強引に私の手を引っ張り歩みを止めることを許さない。

 

こうして私たち家族は、1週間前に決まった旅行へと踏み出したのだ。

結婚しなければ取らなかった選択肢だ。

結婚したことで私の世界は広がった。

 

どちらかと言えば保守的な私の空いているスケジュールを見つけては、妻は断りもなく予定を詰め込んでいく。

小さい娘も同じ気質のようで、家にいる時間が退屈で仕方がないようだ。

 

人が死ぬ間際にする後悔として最も多いことが「もっと自分の心に従って生きれば良かった」ということだとよく言われる。

やりたいことを我慢して社会の歯車としてあてがわれた役割を全うしながら生きていく。

多くの人は、自分の心を押し込めて、扉のない部屋の中で、外に出る方法もわからないまま生きているのかもしれない。

 

そこから抜け出すためには、部屋の壁をぶち破るしかないのだ。

妻はナチュラルにそれをできる側の人間のようだ。

「できない理由」を探すより、「今できるならやってみる」という方針で生きている。

それにつられて私も部屋の外で活動する機会が増えた。

 

私は結婚して良かったと思う。

「結婚すると自由が失われる」と主張する人がいるけれど、私にとっての結婚は真逆だった。

 

結婚する前に感じていた閉塞感が恋しいとは思わないけれど、少しはのんびりする時間が欲しいと思うくらいに、妻と娘は私に次々と要求をふっかけてくる。

 

今回の夏季休暇も予定のない日は一日もなかった。

肉体的な疲労感は大きい。

だけれども、精神的には疲労が溜まりつつもリフレッシュできたのかもしれない。

 

「後悔のない人生」

 

それは最後の時を迎えた瞬間から手に入れられるものではない。長い日々の積み重ねの中でしか得られないものなのだ。

今の一日一日は、そこに向けて着実に歩みを進めているのかもしれない。

ファンダム経済

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本屋大賞を受賞して話題の朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』

まだ未読だがテーマが面白い。

 

「ファンダム経済」

 

いわゆる「推し活」を代表とした一部のコンテンツに対する大量な消費行動を指す言葉だ。

今は「夢を見にくくなった時代」だ。だから自分の夢を他者に委ねてそれを叶えることで擬似的に「夢を叶えた快感」を得る。

そこから得られた達成感が自らの存在意義へとつながるのだ。

 

失われたアイデンティティを回復するための代替行為。

今やそれが最もコスパの良い「夢の叶え方」なのかもしれない。

 

私の中に沸々と湧き上がるもの。

そういうものは確かにある。

もっと本を読みたいし、毎日ブログ記事を書くことを再開したい。

それが自分にとって精神の肥やしとなることは体験している。

だけれども今の私にはそれができない。

 

確かに忙しい。

常に何かに追われているように生きている感じがある。子育ては予断を許してはくれない。

私のリソースは枯渇しており、精神的な肥やしを得ることに時間を割く余裕がないように感じる。

 

その一方でソシャゲには時間を費やしている。

無駄な時間だと思いながらも時間を吸い取られて、時には睡眠時間を削るような愚行に至ることもある。

しかし、ソシャゲは私に効率よく達成感や自己効力感を与えてくれるのだ。

 

だから、大して課金はしていないが、私はソシャゲに貴重な時間を投資している。

そしてそれを止めることができない。

これはある意味では「ファンダム経済」の構造に取り込まれているのだ。

 

構造化されたものから逃れるためには覚悟が必要だ。

人は環境の変化にストレスを感じるもの。

そして、そのハードルは決して小さいものではない。

 

頭ではわかっているのに有意義な時間の使い方をできない。

目の前の「自己効力感」を満たすためだけに、実りのない作業に時間を浪費している。

 

私は私の未来にあまり期待をしなくなったのかもしれない。

子育てや仕事の疲労感に目を覆われて、先のことまで考える余裕がないのだろう。

だから、有意義だと思う方向に進むことができずに安易でコスパの良い擬似的な未来へと進んでいるのだ。

 

このままで良いとは思っていない。

しかし、この時間の浪費を止めることができない。

何か強制力を働かせた方が良いのかもしれない。

 

一歩が大事だ。

効果的な一歩を私は求めている。

そして、その一歩の踏み出し方を私は知っている。

あとは実行に移すだけなのだろう。