「役職」を持っていることは、必ずしもいいことばかりではない。
責任を押し付けられるし、部下から「できて当たり前」というプレッシャーを「あてがわれる」のだ。
高い給与の対価として、いざと言う時に責任を取らなければならない。
それが暗黙の了解となる。
そもそも「役職」は「役割」の一つなのだから、必ずしも能力が高い人が役職が高くなるわけではない。
むしろ、能力以外のところ、
人間関係やタイミングなど、巡り合わせで決まることの方が多い。
それでもまだ、役職と能力が比例するというような考えは根強く残っているのだ。
だからおかしなことになる。
特に今の時代は、若者からすれば管理職は罰ゲームのように扱われる。
部下の立場が強くなりすぎて、かつてないほど会社組織が社員に対して過保護になる。
その結果、管理職にかかる負担はどんどん増えていき、給料が高かったとしても、割に合わなくなっている。
新卒社員がカジュアルに転職をする時代。
コストをかけて採用した人材が戦力にもならないうちに辞めてしまう。
そうすると、管理職は責任を追及される。
組織を表す指標は、事細かに数値化されて、少しでも低い項目があると、その改善を求められるのだ。
実際には大した問題がなかったとしても、サンプル数が少なかったりすると、少数の不満を持った社員に引っ張られて数値は下がる。
問題がないことに対する改善を求められるという本末転倒な事態が起こるのだ。
何でもかんでも合理化を進めた成れの果て。
日本型の「24時間働けますか?」から、欧米式の
「働きやすさ」を無理やり導入しようとした結果の迷走。
そもそも土台が違うのだ。
日本はカジュアルに人を入れ替えることができる社会ではない。
明らかに能力の低い社員に対しても、不満を数値化させないために育成に時間をかける必要があるし、明らかに会社に貢献するつもりのない社員に対しても、効率的な仕事の進め方を指導しなければならないのだ。
そして、それをうまくすることのできない責任は、管理職にのしかかる。
その姿を見て、どんどん若手が管理職に魅力を感じなくなるのだ。
次は管理職に対して優遇するためのテコ入れを行うのかな。
そうやって、つぎはぎで組織を変えていった先に未来はあるのだろうか。
それぞれの組織で最適化を図らなければならないのではないだろうか。
割を食う世代と、苦労をしない世代の差は広がる一方だ。
それも「時代」ということだろうか。