ロシアがウクライナを攻めたことが発端だろうか。
ここ最近は、日本の平和を案ずる風潮が強くなってきた。
アメリカが「世界の警察」として機能しているうちは、日本が軍事力を持たなくても十分に平和を享受することができた。
しかし、それも過去の話。
徐々にナショナリズムからパーソナリズムに傾いているのは、何も個人だけではない。
国も自国ファーストを掲げる政権が誕生したりと、目の前の利益に傾倒する方向へと進んでいる。
それだけ余裕がないのだろう。
産業は頭打ちで先進国もこれまでと同じような経済成長は見込めない。
ただただ貨幣の価値だけが天井なく上がっていく。
もはやその流れを止めることはできない。
そうなると、外に目が向かなくなることは仕方がないのかもしれない。
このまま自国のことは自国で守るという、パーサなリズムが進んでいくと、日本はどうなってしまうのだろうか。
村上龍『イン ザ ミソスープ』
世界の中で日本が比較的安全なことに疑いの余地はないけれども、それに危機感を抱かなくなると、思わぬ外的にいとも簡単に蹂躙されてしまう。
三島由紀夫のような右寄りの考えは、どちらかと言えば好きではない。
しかし、一理あると思わざるを得ない時代に突入するのかもしれない。
「自分の身は自分で守る」
そうなればなるほどに、人は表面的にだけしかつながらなくなる。
それを避けることはできないのかもしれないけれど、そうした分断のスピードを如何に緩めることができるのか。
平和ボケした日本だからこそ、そこに対して担う役割は大きいのかもしれない。
人と人との距離が広がるほど、互いに関心を持たなくなるほど、攻撃に対するハードルは下がる。
ネット上では平気で人のことを叩くことができるように、おおよそ関係ない他人に対して、人は自らの欲求を満たすために残酷になることができてしまうのだ。
分断は悪である。
人付き合いの煩わしさは、人と関わらなくてする社会になればなるほど浮き彫りになる。
しかし、私たちはそこと向き合わなければならないのだろう。
人類の滅びに向けたカウントダウン。
その速度を停滞させることができるのは、
私たち自身なのだ。
自分たちさえ逃げ切れればいい。
そんな会社の体質に嫌気がさしていても、
このままでは、自分たちも同じことをするようになってしまう。
まだ平和を享受することのできる今のうちに、
未来に向けた行動を起こす必要があると感じる。
私たちには何ができるのだろうか。