何に時間を使うのか。
私は「忙しさ」に追われながらも、
そんなことばかりを考えている。
「忙しさ」に飲み込まれてしまうと、
「心」を「亡くしてしまう」のだ。
目の前の取り組みが、望む未来へと続いていることを信じて、
ただ前に進む。
私にできることはそれしかない。
だからこそ、そこに自らの意思がなくてはならない。
主体性をなくした忙しさに追われるだけの人生だったならば、誰の人生を生きているのかわからなくなる。
私は、私の人生を生きる。
そのために自ら望んで、忙しさを享受しているのだ。
単に捉え方の違いでしかないけれども、そう思うか否かの差は大きい。
ニーチェは、ルサンチマンを超克して、末人から超人になれと、生涯語り続けた。
しかし、その最後は、決して恵まれたものではなかった。
自分の可能性を信じ切った先に、必ずしも輝かしい最後が待ち受けているわけではない。
それでも、先に進むしかない。
自らの選択に責任を持ち続けて、歯を食いしばりながら、先に進むしかないのだ。
「心」を保ち続けて、
「心」を見つめながら、
「心」を手放すことなく、
自らの意思で進むのだ。
その積み重ねで人生は作られていく。
側から見たら輝かしくない終わりだとしても、
本人にとって輝かしいものであればそれでいい。
そういうものなのかもしれない。
人生というものは。