辛うじて19世紀までは、その威光を世界中に示していた「神」という言葉。
今ではその効果は限定的と言えるだろう。
それは「唯一無二の絶対的な存在」を指すものではなく、今や日本では「優れたもの」に対する形容としてカジュアルに「神」という言葉を使う。
日本だけではなく、世界的に見てもキリスト教を信じている若者の数は逓減しているようだ。
20世紀の大戦を通して「人」は「神」を超えてしまった。
人が人のために戦争を起こして領土を拡大する。
それは「神」のためではなく、民族や主義主張のための戦いだったのだ。
大きな力を持つにつれて、大きな力に対する畏敬の念が薄れていく。
権力に支配されてしまうと「自分はなんでもできる」と勘違いしてしまう輩が生まれるように、人類は大きな力を持ちすぎたことで、自分を取り巻く環境に対する感謝を忘れてしまったのかもしれない。
「八百万の神」
古来、日本ではすべてのものに神が宿るという考え方が一般的だった。
米粒一つにも神が宿り、物を粗末にしてはいけない、自然に対して畏敬の念を抱き、自然と共存していくという考え方が当たり前だったのだ。
それが「火薬」と「鉄」によって大きく変わった。
そこからさらに発展して「原子力」という世界を滅ぼすことのできるようなところまで行き着いてしまった。
人類は地球を何十回、何百回と滅ぼすことのできる数の兵器を保有しており、もはや地球が滅びていないのは「たまたま」と言っても過言ではないのかもしれない。
何かの拍子に火蓋が切られたら、すぐにでも終わりは始まってしまう。
そんな不安定な大地に私たちは立っている。
「生きる」
それでも生きる。そして命を育み続ける。
人は神に近づきながらも、生物としての営みを続けている。
まだまだ、病気や死を乗り越えることはできていないから、どこかで自分たちの力を超えた大いなるものに対して「祈る」ことを失っていないのだ。
そういう点では、人類はまだ「神」を捨てていないのだろう。
まだまだ生きるために必要な「神」という存在。
これから私たちは「神」とどう付き合っていくことになるのだろうか。
もしも、科学が発展して、人類が病気や死を乗り越える時代がやってきたとしたら、人類はより物質的な存在になる。
精神的な部分を切り離して、機械と同じように生産性ばかりを追い求める存在になるのだろうか。
そういう時代が訪れた時に「神」は本当の意味で死を迎えるのかもしれない。
人類が「神」を超える時代は、もしかしたらそこまできているのかもしれない。