人と意見がぶつかった際に、
先に感情的になった方が負け。
人類が賢くなったからなのか。
少し前からそういう感じに進んでいる。
人と意見がぶつかった時には、
それを受容しつつも「自分はこう思う」と意見を伝えることが正解。
もはや、それが当たり前となっている。
「多様性を認める社会」
逆説的だが、かえって個性は埋もれてしまうのかもしれない。
みんなが特別であるということは、個性的であることが当たり前だということだ。
反骨心を糧にして、個性を成功へと昇華させるということもない。
それだけで居心地がいいものだから、ただただ、自分らしくいることを享受するだけで終わる。
「優しい社会」
みんながみんなのセーフティネット。
それはそれで素晴らしいことなんだけどね。
心と心がぶつかり合う中で得るものもあるはずだ。
この方向で合っているのかな。
人類は、この方向に進むことで幸せの総量を増やすことができるのかな。
「人間至上主義」
進む先はそれしかないことは理解できるけれども、ただ苦労の総量を減らした先に幸せが待っているのかと言われると、それには同意し難い。
人は生きていれば、どこかで必ず苦しみと向き合うことになる。
その時に、それまで積み重ねてきた経験がものを言うのだ。
苦労の少ない温室で育ってきた先に、必ず待ち受けている苦労を乗り越えるだけのレジリエンスを育むことはできるのだろうか。
「優しくない社会」がいいというわけではないけれど、「優しすぎる社会」というのもまた、問題があるように感じる。
理性に支配されすぎるあまり、生物としての本能を失う方向にばかり進もうとする人類。
いまや、人類にとっての神は、AIやアルゴリズムといった、「失敗をすることのない存在」を指すようになったのかもしれない。
ネットワークが広がり、世界が狭くなったことで、「一度の失敗」で人生が終わるほどのダメージを負うことの増えた時代。
表向きは「優しい世界」であったとしても、それは表面的なもので、実態は「全く優しくない世界」なのこもしれない。
「波風立たせないこと」が全てなのだろうか?
「円滑な人間関係」が全てなのだろうか?
人類は大丈夫なのだろうか?