特定のものに傾けた熱意は、傾けた年数が長くなればなるほどに冷めていく。
それが一般的だ。
私のブログも6年ほど続けてきて、今は始めた時ほど熱意を傾けられているとは思わない。
熱意はどんどん冷めていくのだ。
しかし、特定のものに対して熱意を傾け続けている人がいる。
私とその人との違いはどこにあるのだろうか。
少し考えてみたい。
私は、もともと熱意を表に出すタイプではない。
熱意を傾けるものがあっても、必要がなければ動機や活動内容を他人と共有することは少ない。
「私が好きでやっていること」
それを聞かれもしないのに、自分から話すことはあまりないのだ。
このブログにしても、私が好きでやっていることだから、特にリアルで繋がっている誰にも話していないし話す気もない。
ゲームにしても読書にしてもそうだ。
私が日常的にゲームをしたり、読書をしたりしたことを周りと共有する機会は少ない。
話の流れで開示することはあるが、積極的に共有したいという意識はない。
かたや、熱意を持ち続けられる人の行動規範はどうか。
私の知る限り、そういう人は、自分のプライベートな行いを周りと積極的に共有しようとする。
それを行うことで、常に周りから話した内容に対するフィードバックを受け取ることができると共に、会うたびに話したことに対する進捗を確認される。
それ自体が継続する動機となり、熱意を持ち続けることができるのかもしれない。
自分1人で続けていることに、モチベーションを保ち続けることは難しい。
人は環境の変化に伴い、いろいろなことを取捨選択しながら生きている。
モチベーションが低下すれば、当然そのことの優先順位は低下する。
優先順位が低下すれば必然的に時間をかけなくなる。
そうやって、どんなに長く継続してきたことも、環境の変化により人生から淘汰されていくのだ。
熱意を持ち続けられる人は、自ら環境を熱意を持ち続けられるものに変えているのかもしれない。
ある種のフィードバックによる強制力が働けば、自然とモチベーションは保たれる。
そういうことなのかもしれない。
私がブログを続けることのできている理由も、読者の方からのフィードバックがあるからなのだろう。
リアルではモチベーションを保つ術がなかったとしても、オンライン上でモチベーションを保つための仕組みができているのかもしれない。
だから私は、熱意を薄めながらも、こうして毎日ブログを書き続けているのだ。
かく言う私も、皆さんのおかげで、熱意を持ち続けられる人になっているのかもしれない。