とんでもなく不器用なのに器用に立ち振る舞うということ

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「令和」

新しい元号が発表された。

「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」

らしい。

 

書くことも文化、

読むことも文化、

人が人とプラスの面で繋がること、

鬱憤ばらしでもない。

誰も傷つかない。

当ブログをそんな「文化」の片隅で育てたい。

 

 

ある面ではとても器用に立ち振る舞うことができるけれども、

それをやりすぎると気持ちがついていかなくなる。


納得していないことでも、

事を荒立てないように配慮する。


決められた手順からはみ出さないように、

慎重に作業を進める。

なぜって?

それが「決められた手順」だから


意見を潰されても、

軽んじられても、

指示を受けたとおりに作業する。

なぜって?

それが「社会というもの」だから


そんなふうに立ち振る舞って、

それが当たり前になって、

少しずつ「我慢」という水を「度量」という器に注ぎ続けて、

水を捌けることをしないままそれが続くと、

器から水が溢れ出てしまう。


自分を表現しないと気が済まないのだ。

きっとそういう性質、


表面的には器用に立ち振る舞うことはできても、

それをしながらうまく水を捌けてあげられるほど、

器用ではない。


だからどこかで爆発して、

いろいろなことが嫌になってしまう。


「不器用な自分」


いくら器用に立ち振る舞えるようになっても、

性質はなかなか変えられない。


それならば不器用な自分を認めてあげないと、

どこかで行き詰まってしまう。


「メモリの無駄遣い」

強化系と具現化系は相性が良くないのだ。


ある程度は必要だけれども、

得意ではないことを伸ばそうと躍起になっても、

内面と外面の統合が取れなくなる。


私は不器用だ。

だけれども真っ直ぐだ。

それならば愚直に誠意をぶつければいい。


うまく立ち回ったって、

それで少しばかりの得をしたって、

心の底から納得はしないのだ。


性質は簡単には変わらない。


小手先の器用さで小金を稼ごうとするよりも、

自分の心を納得させるほうが、

よほど大きな投資になるはず、


積み重なった人生、

これまでの30年間を簡単に捨ててはならない。


結局はこれまでの延長線上に「納得」はある。


積み重ねてきたものと照らし合わせて、

違和感がないから迷わずに前に進める。


あいにく、

その違和感を見過ごして生きていけるような、

そんな器用さは持ち合わせていない。


立場を変えても、

住処を変えても、

人間関係を変えても、

生き方は変わるかもしれないが、

性質は変わらない。


誰しも才能がある。

自分の性質を見誤ってはいけない。


せっかくの才能を無駄遣い。

最後はヒソカの食い物にされるだけ、


「社会」という名の個性を食い荒らす怪物に、