「人の不幸は蜜の味」
そういう意味のドイツ語らしい。
しかし、そのような感情も、ある意味で人間らしい。
人は、カッコの良いペルソナを被りながら生きているうちに、どれが仮面で、どれが素顔かわからなくなっていくのだ。
叩かれる事を恐れて、いい子であることが至上命題となりつつある時代。
本音など、どこにあるのかわからない時代だ。
隣の「いい子」を一皮剥けば、化物が隠れている可能性がある。
逆に、付き合いにくいと思っていた人が、不器用で純粋な「いい子」だったということもある。
人の本性など外見ではわからない。
だからこそ、これからの時代では「弱さ」や「醜さ」を曝け出すことに価値が生まれるのかもしれない。
どんなに取り繕ったところで、自分の嫌いな自分は存在するのだ。
それをうまく誤魔化しながら生きることが正しい生き方だと自分に言い聞かせて生きている。
「人の不幸に喜びを感じること」があっても良い。
自らに生じた感情を否定することはできないのだ。
「それも自分」だと背負っていきた方が、結果的に自分らしく生きられるのではないか。
金太郎飴みたいに、お手本のような対応ばかりの世界に少し寒気がするのは私だけだろうか。
若い世代ほど、いい子でありたいと振る舞う傾向が強いと感じる。
剥き出しの「野心」や「攻撃性」を適度に出したほうが評価されることもある。
「無難」であることが正解なのか。
ここ最近、よく考える。
自分らしさ、すなわち「その人らしさ」を発揮してこそ、シナジーが生まれるはずだ。
人間だって生き物なのだから、もっと欲求に正直に生きてもバチは当たらない。
私の生活を振り返ってみると、そう思えることは多い。
もう少し適当で良いのかもしれない。
そんなことを考える。