ある本を読んでいて書かれていたこと。
「人類は進化と共に『心』の正体を解明していき、そのうち『心』を不要なものとして捨ててしまうようになるのではないか」
私たちの科学は、神の領域に迫っている。
遺伝子の解明により、ダーウィンの進化論は、一部の宗教界隈を除いていっぱんてきだととらえられるようになり、神の持つ役割は以前と比べて限定的なものとなっている。
人類は、自らを創り出したと信じてきた神に近づくにつれて、神を信じなくなったのだ。
日本人である我々も、どこかで心を有機的なものだと信じたがっている人が多数派だろう。
その方が健全だ。
自らの中にどこか神秘的なものがあると信じられるからこそ、人は自らの存在を「特別」だと思えるわけで、それを取り除いてしまったら、自尊心をどこに構築したら良いのかわからない。
今の化学は、人の寿命を伸ばすという意味では「進化」してきたことは間違いない。
しかし、「人の命の価値向上に寄与しているのか?」と、そう問われると、危険な領域に足を踏み入れて久しいのかもしれない。
ここで、永遠の課題である問題に突き当たる。
「幸せの定義」についてだ。
その大枠として鎮座する不自由な二択。
「知らないことを知ること」と「知らないまま生きること」
人生には、知らない方が幸せなことがある。
それを知らないまま生きる方が幸せなのか。
それとも、それを知って思い悩む方が幸せなのか。
「知らないことを知って思い悩む」
そこには苦しみが伴うけれども、生を全うするという意味では、そちらの方が幸せなのかもしれない。
かつて、吉本ばななさんの書かれた言葉が印象に残っている。
「この世に知らなくても良いことなど何一つとして存在しない」
それは、この世の全てを受け止めてでも力強く生きるという覚悟の表れだ。
なかなかそこまで辿り着ける人はいない。
私は、「人生は自己責任」だと思っている。
そこには、知るという選択も、知ることを拒むという選択も含まれている。
自分が選び取った先の未来に対して、私たちはどこまでも責任を取らなければならない。
人類は、自らを科学すればするほどに、「知る」か「知らないまま過ごす」か、この2択を突きつけられているのかもしれない。
人が、言わば「神」に近づきすぎた時代。
そこから先に、私たちは何を持って、人としての尊厳を担保するのだろうか。
「心」を再現可能なものにしてしまったら、
私たちも結局は、無機物と変わらない存在だと証明してしまうことになる。
その先の未来に、希望はあるのだろうか。