余裕があると、人は「余計なこと」を考える。
これまで私は、それを書き綴ることでブログを続けてきた。
昔の記事を振り返ってみると、「面白いことを書いているな」と思う記事も少なくない。
それは、その時の私に余裕があったからなのだろう。
「余計なこと」
面白いことは、たいてい余計なことの中にあるのだ。
「必要なこと」の中に面白いことがあった試しなどない。
個性や彩りは、人生のうち「余計なこと」の中に含まれている。
そう考えると、「必要なこと」をするための時間とは、誰しも同じように過ごしているのかもしれない。
効率ばかりを追い求める時代だ。
そうなると、行動はどんどん画一化されていく。
マニュアルがどんどん増えていき、その通りにすれば失敗しない。
人生も同じように、徐々に画一化されているのかもしれない。
「誰の人生を生きているのだろう」
考えれば考えるほどにわからなくなる。
自分が選択をしているようで、その選択は自分ではしていないのかもしれない。
私は、これでもかと言うくらいに市井の人だから、
割と誰もが選ぶ当たり前の選択肢ばかりを選んでいる。
そう考えると、私の選択は人類が歩んできた経験の塊であり、私が選んだものではないのかもしれない。
だからこそ、普段自分が選ぶことのない選択肢に価値が生まれる。
自分の意に添うような情報ばかりに触れて、都合の良いバイアスに踊らされて、私は生きているのかもしれない。
それでは見える景色は変わらない。
普段とは違う選択肢の先には、大きな苦労が待ち受けているだろう。
それでも、私が私の生きている証のようなものを手に入れるために、敢えて苦労する道に進む。
それは「余計なこと」のように思えて、
「必要なこと」なのかもしれない。
「余計なこと」と「必要なこと」の境目など、
あってないようなものなのかもしれないな。