時代は「令和」だ。
年号が変わってから3年が経ち、
「令和の怪物」など、時代を象徴する扱いをされる人物が出るようになった。
怪物くん・江川卓
平成の怪物・松坂大輔
令和の怪物・佐々木朗希
野球ばかりだが、これから先、どのような怪物が生まれてくるのだろうか。
我々と同じく、令和を生きて3年しか経っていない新入社員も「令和世代」と言われるようになった。
私は昭和の終わりに生まれて、平成を初めから終わりまで生きた。
今の日本人の大多数が所属する「昭和生まれ」と言うカテゴリに属する。
しかし、入社した年が「世代」となるのであれば、私は「平成世代」となるのだろうか。
創造力を発揮して、世界を変えるような働きをするような年齢は過ぎてしまった。
そういう実感はある。
そうなると、私は旧世代の人間であることになるのだろう。
平成を「失われた30年」と揶揄する風潮があるけれど、その時代を生きて来た私は、手に入れることに対して貪欲ではないのかもしれない。
「物質的な豊かさ」よりも、「精神的な豊かさ」を求める方向へとシフトしていく。
そのベクトルは変わることなく、今の世代に伸びている。
私たちは、目まぐるしく変わる世界を生きているのだ。
物の価値は簡単に変化する。
「貨幣」ですら信用できるかわからない。
そんな時代を生きているのだ。
そう考えると、「精神的な豊かさ」
それを求めて生きる方が合理的なのかもしれない。
今の若者は「経験」にお金をかける。
「経験」が自分のためになることを直感的に理解しているのだ。
だから、楽しく軋轢なく過ごす。
若くして、いろんなコミュニティの中でうまく立ち回る術を身につけている。
そんな印象が強い。
若い頃の我々よりも、若いうちに随分と先に進んでいるのかもしれない。
その反面、信念や哲学みたいなものは確固たるものがなく、気持ちのままに進むことが多いのかもしれない。
「生きるってこと」はさ。
それこそ、「楽しむためにある」と言う考えに異論はないけれど、「楽しみ方」にはいくつか種類があるんじゃないかな。
「その時を楽しく過ごすことができればいい」という刹那的な積み重ねを続けていても、どこかで躓くことになる。
だから、「できなかったことができるようになる」
いわゆる「成長」という形での楽しみに身を預けることが私は大事だと思う。
そして、そこには筋の通ったものが必要ではないだろうか。
選択肢が広がり過ぎて、自由に生きることができるようになった時代。
ステレオタイプを目指すことだけが正解ではなく、地に足ついて生きていなくても、どこか「格好いい」とそういう価値観が広がってきた。
オンラインにより、世界は狭くなったのだ。
ほんの一握りの成功体験を、自分ごとのように体感することができるようになった。
必要な情報は指先だけで手に入り、取捨選択も指先だけで完結する。
「人との繋がり」は広く浅くなり、同じ目的を共有していなくとも、とりあえず繋がっておくような印象を受ける。
「川」から「湖」に変わったのかもしれない。
私はまだ昭和生まれだから、年上のおじさまやお姉様の価値観に合わせて行動することに違和感はないけれど、令和世代の考え方もわからなくはない。
ちょうど過渡期を生きた我々は、世代のパイプ役として重要な存在なのかもしれない。
ここ最近は、令和世代との関わりが多く、彼ら、彼女らは何を考えて生きているのか、知りたいと思うことが増えた。
私がこれからリーダーとして生きていくには、その子たちのことを自分なりに理解する必要がある。
年上と過ごすことの多かった私の環境は、大きく変わることになる。
もうリーダーとなる世代に片足を突っ込んでいるのだ。
その自覚は少しずつ深めていかないといけない。