先日、はてなブックマークに上がっていた記事の中で、面白いワードを見つけた。
「解像度の高さ」
元々、解像度とは、ディスプレイの表示性能を表す単位だ。
いわゆる4Kよりも8Kの方が解像度が高く、1ピクセルに含むことのできる色の数が多いため、人の目には、画面が鮮明に映るということになる(調べていないが概ね合っているはず)。
しかし、この記事では、仕事に対してこの言葉を使っていたのだ。
見る対象物をビジネスの課題に置き換えて、課題に対して根本的原因を鮮明に捉えることができていれば「解像度が高い」ということになり、不鮮明であれば「解像度が低い」ということになる。
依頼者の意図を汲んで、それに沿う形での成果物を提出出来なければ、相手の伝え方が悪かったとしても、相手からすれば「こいつは仕事ができない」と判断する。
人は主観的な生き物だから、多くの人は、まずは自分の伝え方に問題があったとは考えない。
上司であれば、尚更そういう傾向があるかもしれない。
そうなると、相手の依頼に対する肝を的確に捉えるためには、作業に取り掛かる前に、自分の方から掘り下げて質問をすることになる。
その掘り下げ方が的確であればあるほど、「解像度が高い」ということに結びつくのだろう。
もちろん、同じ言葉での依頼だとしても、依頼者が違えば、意図するものは変わってくる。
そこまで含めて依頼を的確に捉えることが必要なのだろう。
転職をして、ゼロからスタートをすることになり、つくづく感じることがある。
私を守っていたバリアは取り払われてしまったのだ。
前職では、それなりに実績があったものだから、私の立場は強かった。
私がイエスと言わなければ進まない案件を多く抱えていたため、依頼者側の忖度も多分にあったのだろう。
私はそれに甘んじていた。
バリアのなくなった私に容赦なく降り注ぐ、タスクの数に押しつぶされて、苦しみながらも、なんとか少しずつ錘を取り除いているのが今の状況だ。
ドラゴンボールで行っていたように、重い胴着を着て修行しているのだから、錘が取れた後の私は、前よりもパワーアップすることができるのだろうか。
今は、それを信じて耐えるしかない。
こういう時は、リソースを特定の行為に割くために、他のことを諦めて生活が整えるべきなのだが、私にはプライベートでも大きな変化があるから、それもままならないどころか、生活は以前よりも乱れている。
何から手をつけたらいいのかわからないうちに、気がつくと大したことに時間を使わないまま、また忙しさに飲み込まれていく。
だいぶ話が逸れた。
「解像度の話だった」
今の上司は、恐ろしいほど指摘が細かい。
「よくそんなところにまで気がつくな」と驚くほどだ。
おそらく上司は「解像度が高い」のだろう。
むしろ、高過ぎてそこまでしなくてもよいことばかり、やらなければならなくなる。
私は大体8割くらいの精度であれば問題ないと考える性格だ。
一度メンタルをやってしまってからは、コスパ重視で完璧を求めないように自分を作り変えた。
これまではそれで良かったのかもしれないけれど、今はそれでは不十分なのだ。
そうなると、私はまた自分を作り変えて、今の環境に順応する必要がある。
今の苦労は、後々私のためになるはずだ。
体を壊さないギリギリのところで耐えながら、希望の未来に想いを馳せる。
そうやって耐えるしかない。
もう少しのはずだ。
もう少し、私のパワーアップがどれほどのものなのか、楽しみにしておこう。