「社会貢献がしたい」
人事の仕事をしている友人によると、アンケートの結果、昔と比べて最近の大学生はその傾向が強いようだ。
誰かの役に立つことで、自分の心は満たされる。
確かにそういう面はあるだろう。
しかし、裏を返せばそれは、他人の役に立ちたいと思うこと以上にやりたいことがない。
そう捉えることもできる。
採用する側からすれば、目の前の人物にどのような思想があり、何を実現するために働きたいのか。
その素の部分が見えないと捉えどころがないように感じる。
情報ばかりが溢れており、少し調べればウケの良い答えはいくらでも手に入れられる。
オブラートの中身は見えない。見えないのではなく、もしかしたら中身はないのかもしれない。
そんな空っぽな時代なのだ。
「自己承認欲求」
それが悪いとは思わないけれども、それが暴走した結果の行動は、あまり良い方向に向かう気がしない。
いくら良い活動をしていても、自己承認欲求が強すぎると鼻につく。
世間はそれを敏感に感じ取って叩く材料に変えるのだ。
あるいは、初めは正義感のみで行動していたが、徐々に自己承認欲求に飲み込まれるというケースもあるだろう。
人は孤独には耐えられない。
最低限の名声があれば、それだけで誰かが気にかけてくれる。
誰からも必要とされないことはあまりにも辛いから、それを回避しようと躍起になる。
その結果として、暴走した自己承認欲求により、ますます信用を失う。
どこでもかしこでも良い顔をして、当たり障りのないような行動を心がけて、調和が生きる目的になってしまったら、何のために生きているのかわからない。
自分の心に問いかけなければならない。
何をしたいのか。どのように生きたいのか。
中身が空っぽのままだと、いくら立派な鎧を観に纏ったとしても、高が知れている。
最後は中身がものをいうのだ。
それは歳を取ればとるほど実感する。
人に対してどのように接してきたのか。
どれだけの苦労を受け止めてきたのか。
自分の命とどう向き合ってきたのか。
そういうものが外側に滲み出てくるのだ。
そして、それはどんなに情報を吸収したとしても、一朝一夕で手に入れることはできない。
それはAIには真似することのできない、形のある物体としての肉体が持つ確かな力なのかもしれない。
自己承認欲求に支配されてはならない。
「社会貢献」を口にするならば、自己承認欲求を飼い慣らさなければならない。
そうじゃないと、かえって信頼を失う結果になることは目に見えている。
繰り返すが、人は孤独には耐えられない。
誰かに認めてもらう中で、社会の一員としての実感を手にすることに充実感を覚えるのだ。
その魔力に支配されないよう気をつけなければならない。
果たして我々は、本当に「社会貢献したい」と思って生きているのだろうか?
自問自答を忘れてはならない。