人は「社会」というものを手に入れて、
その規範に従って生きている。
時にはその規範から外れた衝動に駆られて、
人知れず欲求を解放したり、
場合によっては他人に迷惑をかける形でそれを発散してしまったりする。
「理性」と「本能」
その狭間に揺れて、バランスを取りながらちょうど良い位置を模索して生きる地上唯一の生き物、
それが人なのかもしれない。
賃金を得るためにやりたくもないことに時間を費やして、
欲望をひた隠しにして何食わぬ顔で社会に溶け込んで、
時には愛情を確かめるために厳しい態度で相手に当たったりなんかして、
どこまでは許されて、どこからは許されないのか。
それを探るためのチキンレース、
そこには厳然と勝者と敗者がいるのだ。
「社会」を「欲求を抑えるための檻」に見立てるならば、
結局はギリギリのところで許された人、
その人が得をするようにできているのだろう。
だから危ない橋を渡る人が後をたたないのだ。
ルールは平等を目指して作られる。
誰かだけが不当に得をすることのないように作られる。
だけれども、決してルールを作る側が損をするような形にはならない。
だから、ルールを作る側、
損をしたくないのであれば、そちら側にまわるための努力をするべきなのだ。
みんなのために作られたはずのルールなのに、どうしたって損をする人と得をする人が出てくる。
初めは不平等を口にしていたとしても、自らが得をする立場となれば一転、不満を口にすることはなくなる。
結局は損得勘定、
そうやって行動規範を決めていく。
だけれども、それでいいのかな?
初めは何か揺るぎない信念のようなものがあって、それに従って行動を決めていたはず、
いつのまにか損得勘定ばかりが優先順位の先頭にきてさ。
「どうしたら損をしないで済むのか」って、そんなことばかりを考えるようになる。
「情報弱者」
「知らない方が悪い」って、そんな風潮、
知っている人が優越感に浸るためにできた言葉だろう。
調べる余裕もなく、ただ必死に生きている人もいる。
それはそれで自己責任なのかもしれないけれど、知らないからといって馬鹿にされるような謂れはない。
そして、そういうところに手の届かないような行政サービスでは存在意義自体に疑問が残る。
「損をしないように」ってさ。
その行動自体が誰かの損につながることになる。
ルールを決めるときには、とにかく悪用されないことを前提に考えるから、わかりにくくなり、本当に必要な人の元に届きにくくなるのだ。
サービスを悪用する人は「誰にも迷惑をかけていない」と思っているかもしれないけれど、大いに社会全体に迷惑をかけているのだ。
そのことに気がつかないで、自らの忖度ばかりを主張する。
みんなが幸せになるために「社会」ができたはずなのにね。
いつだって誰かが得をして、誰かは損をする。
これは何とかならないものなのか。