非常に危険な本だ。
なぜなら、人が人であり続けるためのハードルが非常に高いことを、史実やデータに基づく事実から痛いほど突きつけてくる内容だからだ。
「人間至上主義」
思えば私たちは、長いことその思想に浴していたのだろう。
人の経験や感情。つまり「心」というものの価値は何ものにも変え難いものだと信じてやまない。
ある意味で、20世紀はキリスト教やイスラム教よりも多くの信者を獲得した宗教が「人間至上主義」というものだった。
「人の心の持つ価値」
それを疑ってしまったら、私たちの人生は意味のないものになってしまう。
しかし、もしかしたらそういう時代は、すぐそこまで迫っているのかもしれない。
「人の心」をアルゴリズムによって再現可能であることを証明してしまったならば、そこから先の人類は「アルゴリズム」を信仰することになるのだ。
かつて「神」を捨てて「人間至上主義」に傾倒したように、社会は「便利な方向」へと進んでいく。
「神」とは違い、確かに存在を実感することのできる「絶対的な他者」
さらに世界中どこからでも簡単にアクセスすることができる。
今はまだネタに過ぎないが、人類が何をするにも『ChatGPT』のような存在にお伺いを立てるような時代。
それが近づいているのかもしれない。
起きてから寝るまでの行動、メールやLINEで送った内容、心拍数などの健康情報、自分の人生全てを情報として提供し、あらゆる判断をアルゴリズムに委ねてその通りに生きることが一番な最適解となる。
果たして、そういう時代がくるのだろうか。
もはや、何のために生きるのかわからない。
自分の生体情報もまたデータベースに組み込まれて全体最適化に寄与する。
究極の管理社会だ。人類の寿命もクオリティオブライフも表面的には飛躍的に伸びるだろう。
ジョージ・オーウェル『1984年』や、伊藤計劃『ハーモニー』のようなディストピア。
もはや絵空事ではないのかもしれない。
私はブログの中で、事あるごとに「命の使い道に目を向けるべきだ」と述べてきた。
「命が大切であること」は、かつてないほどに人類に浸透している。
しかし、その命をどのように使うのか、そのことを真剣に考える機会は足りないと感じる。
「ただ長生きすれば良いのか」
「人といた幸せに生きるとは、どういう事なのか」
これまで人類が考える必要のなかったようなテーゼが、これから先は筍のように其処彼処に生み出されるのだろう。
そして、多様性の尊重される時代だ。
選択の責任は全て個人に委ねられる。
私たちがこれから生きていく時代は、とんでも無く過酷な時代なのかもしれない。
「人が人であるために必要なこと」
それを常に突きつけられながら、試行錯誤して正解の見えない大海原を荒波に揉まれながら生き続ける。
その過酷な環境の中で、自ら材料を見つけて船を作り、コンパスを作り、目的地を決めて、どこかに辿り着くことを目指す。
私たちが生きるということは、古来からそういうことなのだろう。
それを、より明確に突きつけられる。
心を抉られるほど力強く突きつけられる。
その痛みに耐えながら生きるのか。
その痛みから逃げて生きるのか。
その選択もまた、私たち一人一人に委ねられるのだ。