「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

「メモ」に保存していたストック記事が出てきた

f:id:tureture30:20240129072353j:image

 

 

 

 

数年前からだろうか。

私は「はてなブログ」アプリの中に直接下書きとして、思いついたことを書くようになった。

 

しかし、その前は「メモ」アプリに記事の下書きをしていたことを忘れていた。

「そういえば」と思い出して、「メモ」アプリを開いてみると、10数個のストック記事が出て来た。

 

読み返してみると、今の私の心情とはだいぶ異なることを書いている。

まるで自分がこの世で一番不幸なんじないかというような、悲劇のヒロインを気取った記事を読み返すと笑ってしまう。

 

人は前に進んでいるのだ。

たかが数年前に書いたもののはずなのに、今読み返すと、しっかりと黒歴史になっている。

 

ただし、読み物としては面白い。

今の私が書く記事よりもよほど赤裸々に感情を綴ったその記事は、確かに読み物としての価値はあるのかもしれない。

 

そう考えると、作品を作るためには、ある程度、作者の精神が不安定である必要があるのかもしれない。

心の内側が漏れ出てくるくらいの不安定さがないと、その人の心の内から出てくるスパイスのようなものが香り立たない。

 

「創造的人生の限界は10年」

映画『風立ちぬ』の中で主人公に対してマエストロがいう言葉。

それは確かなのだろう。

 

精神が不安定な状態を、人は何十年も続けることはできない。

それをできてしまう人は、尾崎豊さんのようにどこかで壊れて自らの命を繋ぐことができなくなってしまうのかもしれない。

 

コロナ禍にもたくさんの芸能人が、自らの手で命を経った。

芸術家という生き物は、ギリギリ不安定なところで生きているのかもしれない。

それで売れ続けるということは並大抵のことではないのだろう。

 

私が今の自分と過去の自分を比べただけでも、紡ぎ出す文章に大きな違いを感じるくらいだから、その道で勝負している人は、文字通り「命を削って」作品を生み出している。

 

私の創造的人生は、とっくに終わったのだろう。

始まってすらいないうちに終わってしまった。

 

『八本脚の蝶』を書いた二階堂奥歯さんのように、この世に自分の全てを書き残して命を断つような人もいる中で、もし下手をしたら私もその道に進んでいた可能性もゼロではない。

 

私は凡人中の凡人で良かった。

私には、自分をさらけ出したままで文章を書き続けることなどできなかったのだ。

 

それでもブログを書き続けている私は、何を求めているのだろうか。

何も求めてなどいない。

ただ書きたいから書き続けているのだろう。