これまでは想像もしなかったような未来。
普段とは違う選択肢を意図して選ぶことで、
人は現状を変えることができるのだ。
今の私はそういうところにいる。
全く想像していなかった道を進んでいる。
人生というものはわからない。
分岐点での選択を迷って、一つ隣の選択肢を選んでいたとすれば、今とは全く違う人生に進んでいたのかもしれない。
停滞感に苛まれたまま、
時だけが私の前を通り過ぎていく。
それをどこか客観的に眺めながら、
気がつくとまた一つ歳をとっている。
そこから抜け出した私は、
刺激的に時を刻んでいる。
同じように時を刻むのであれば、
しっかりと「刻んだ感触」が欲しいものだ。
今の私は時を刻んでいる。
その感触だけは確かにこの手に残る。
私はまた一つ歳をとる。
その確かな実感が命に刻まれる。
それは私にとっての「生きた証」なのだ。
これから先の未来。
それもまた、今の私には想像できない。
長いモラトリアムは終わった。
私はこれから先、私の外のものに対してもこれまで以上に責任を負わなければならない。
だからといって、私が私の人生を生きることは変わらないのだ。
その中で、絶妙にバランスを保ちながらも、私は私らしく時を刻むことを求めている。
心に正直に、心と行動の乖離をなるべく減らしながら、私は「あたらしい世界」を堪能したい。
今のところは、率直にそう感じている。
「経験」を心の栄養として取り込み、
これから先も私は、自らの心を育て続ける必要がある。
それを放棄してしまったら、
その時点で私は私の人生を諦めたことになる。
「ご都合主義」に身を預けて、幾つになっても馬鹿みたいに自分の可能性を信じ続けて、私は私の人生に責任を持ち続けるのだ。
そういう「狂気」に身を委ねることの必要性を感じている。
とことん、自分の可能性を信じ切った人が、過酷な日常を自分のものにすることができるのだ。
今の私は、瀬戸際にいるのかもしれない。
割り切ってしまえば、それ以上に器が大きくなることはない。
それはそれで悪いことではないのだけれども、私はもう少し先に進んでみたいのだ。
「あたらしい世界」
それが自分にとって、優しい世界ではなかったとしても、自らその道を進む決断をしたのだから、その選択に責任を持たなければならない。
先のことはわからない。
だからこそ、人生は楽しいのだ。