いわゆる「同調圧力」ってやつ。
おそらくタイトルに興味をもってこの記事を開いた人の感じている違和感は、
この「同調圧力」という文字に集約されるのではないだろうか。
あまりにも従業員の権利が強すぎると、それを行使することを求められたりだとか、
それを回りが行使することに異を唱えることができないだとか、
そういった問題が浮上してくる。
江戸時代に賄賂政治を行っていた田沼意次から、「清く正しく美しく」だなんて標榜したかどうかは知らないけれど、清廉潔白を目指した松平定信へと権力の座が移ると、次第に民意は離れていった。
「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」
だなんて有名な句があるけれど、
「ホワイトすぎて居心地が悪い」というのは人の常なのかもしれない。
箱ばかりに装飾が施されていって、中身はついてきていないのだ。
今の働き方改革なんてものは概ねそういうものなのかもしれない。
表立って批評することができないものだから、それが許される場面になると、ここぞとばかりに批評が止まらない。
まるで飢えた狼のようだ。
人の本質なんてものはさ。
いくらルールで縛りつけたところで、たいして変わることはないのだ。
個別に檻に閉じ込められて干渉を避けるようにしていたところで、虎視眈々と自己存在をひけらかす機会を窺っている。
そして、弱者は強者に食い散らかされるのだ。
ルールの中で食い散らかされるのだ。
押さえつける力が大きければ大きいほど、タガが外れた時の反動は大きい。
いくら「ホワイト」な皮をかぶっていたところで、そこで働く人の本質は何も変わらないのだから、ドラマ『不適切にもほどがある』のように、表立って「ブラック」を押し出した方が、まだ可愛げはあるのかもしれない。
権利なんてものは、所詮強いものの特権にしかならないのだ。
それを使うように決められたルールもまた、強いものが作ったルールなのだ。
組織がうまく回るように、自分たちが損をしないように、強いものが作ったルールでしかない。
ルールを作る側が損をするようなルールは作られることはない。
自分がそうをするか得をするかは、ルールを作る側に近い立場なのか、そうではない中で変わるのだ。
「多様性」という言葉の叫ばれる時代だけれども、結局は、長いものに巻かれた方が生きやすいのかもしれない。
人間の本質は、変わらないのだから。