「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

便利になればいいというものではない

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「なんとなく疲れている」ということは減った。

「明確に疲れている」のだ。


疲れて仕方がない。

自律神経が乱れていることは明白、


若干の乱れはあるものの、

規則正しい生活を続けている。

運動習慣はある。

体は順調に仕上がっている。


おそらくストレスが強いのだろう。

それも要らぬストレスばかり、


必要のない人間関係と、

必要のないことで悩んで、

必要のないことばかりやらされる。


「必要がない」と提案しても、

「今までもそうしてきたから」と、

おあつらえ向きの返答、


「やりたいこととやらなくてはならないこと以外は極力やらない」


そう決めて生きているから、

なんだか合理化することが癖になって、

非効率的な行為に対する嫌悪感ばかり募る。


その要らぬ手間にやりがいを感じて、

満たされている様子の仲間がいる。


その様子を見ていると、

嫌味なしになんとも羨ましく思う。


「やりたくない」からストレスが溜まる。

「やりたいこと」ならば、

どんなに非効率でも楽しいのだろう。


世の中から非効率がなくなったら、

相当な人が職を失うことになる。


結局、社会は利権を守るために一定以上の効率化を嫌う。

きっと生活だってそういうもの、


何でもかんでもロボットがやってくれるようになったら、

「生きる」意味を見失ってしまう。


掃除や洗濯、食事に入浴、

日常に「生」の実感を見いだせないと、

やがて息を吸うことすらめんどくさくなってしまう。


便利になるのは趣味に時間を割けるくらいのところまででいい。

人はめんどくささに「生」を感じるのだ。


隠れた手間に気がつけるようになりたい。

そして、そこへの感謝を忘れずにいたい。


味を整えるための入念な下ごしらえ、

プレゼン前の足を使った地道な事前調査、

0.01秒を縮めるための血の滲むような努力、

LINEよりもあの子に思いを伝えるための下手くそな手紙、


「何でもかんでも便利になればいいというものではない」


時間を使って、

体を使って、

まごころを伝えることが「おもてなし」なのだろう。


一見すると非効率に思える作業の中に、

真摯な気持ちが宿る。


その真摯な気持ちが響くから、

人の心は動く。


「うらおもてなし」

とはよく言ったものだ。


便利になる代償として、

便利を求める代償として、

何かを失い続けていると感じるこの頃、

 

価値あることを生み出さなければいけない

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人は認められたい生き物、


一度何かで認められると、

脳内で快楽物質が分泌されて、

より「認められたい」と思うようになる。


特に子供はみんなそう。


身近な人、

多くの場合は親、兄弟、


その人たちが喜んでくれるから、

無邪気に拍手してくれるから、

自分にかまってくれるから、


だから一度褒められたことを何度も繰り返す。

時と場合など考える頭はない。

前に褒められたから良いことなんだと信じて、

認めてもらいたいから、

何度も何度も繰り返す。

 

悪意はないのだ。

ただただ周りに認めてほしいだけ、

「自分はここにいるんだよ」って、

気がついて欲しいだけ、

 

褒めたい時にだけ褒めるのは、

大人の身勝手なのかもしれない。


その純粋さが高じて、

「将来の夢」になんてなることもある。


学校で一番サッカーが上手いだとか、

将棋なら誰にも負けないだとか、

書いた絵がコンクールに入賞しただとか、


だけれども上には上がいるもので、

努力が認められなくなってしまうと、

いつの間にか描いた「夢」のことを忘れてしまう。


誰もが「夢の飼い主」だったはずなのに、

どこかでその役目を放棄してしまう。


「忘れないで、得意だったことを」

「忘れないで、好きだったことを」


そう言ってあなたの「夢」は待っているのかもしれない。

心の片隅の寒く薄暗いところで、

あなたが思い出してくれることを、


夢中になっていたこと、

没頭して気がつけば暗くなっていた日のこと、

褒められて誇らしかったときのこと、


たまにはそれを思い出してみるのも悪くない。


今の自分を形作っているもの、

間違いなく自分のルーツはそこにあるのだから、


「価値あることを生み出さなければいけない」


そんなことに必要以上に縛られるから、

楽しかったことを忘れてしまう。

楽しむことを忘れてしまう。


コモディティ化しない価値は、

自分が心から楽しいと思えるものの中にしかない。


心が弾まないから、

心を弾ませないような努力ばかりを重ねるから、

日常が色あせてしまう。


自分のルーツはどこにあるのか。

「何者なのか」を問う前に思い出さないといけない。


「ただ名前を呼んでくれるだけでいいんだよ

 ねぇそれだけ忘れないで」


どうせ努力をするならば、

ワクワクするものにその時間と労力を使いたいもの、


子供はみんなそれの天才、

教えてもらわなければいけないな。

 

天才だった頃の自分を思い出しながら、

 

 

監視社会

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「最大多数の最大幸福」

それを目指した功利主義者として有名なジェレミ・ベンサム


彼が囚人の自立を促すために提唱した、

パノプティコン型と呼ばれる円形の監獄、

彼は「囚人を恒常的な監視下におけば、

彼らに生産的労働習慣を身につけさせられる」と主張した。


中央に監視塔を置き、

その360度に囚人室、

看守からはすべてを見渡せるが、

囚人から看守の様子は見えない。


この構造により、

囚人はいつも「見られているかもしれない」という心理が働き、

悪事を働かないようになるらしい。


それをもとにミシェル・フーコーが唱えた

パノプティコン社会」と呼ばれるもの、

いわゆる「監視社会」の原点だろう。

 

情報化が暴走を始めた近年、
少し前のことになるがこの言葉が注目された。


最も先に進んでいるのは中国、

インターネットは国家の検閲対象となり、

検索ワードに制限がかけられる。


監視カメラはいたるところにあり、

ネットワーク機器にまで盗聴の疑い。

一歩間違えれば、国体のために国民の自由を奪う。


そもそも出発点に問題がある。


功利主義」とはいわば究極の合理化、

「全」のために「個」を切り捨てることを厭わない。

その弱点は人権が軽視されていることにある。


ドラマ『絶対正義』

「法律」という名の正義を振りかざして、

人権を無視してバタバタと人を裁いていく主人公、

そこに「愛」はなく、あるものは「正義」だけ、


そうなってしまうと信用も何もあったものではない。

従うように見えても内面にはどんどん不満を貯め込む。


監視社会でも構造は同じだろう。

抑圧された心はどこへ向かうのか。


たいてい蜂起へと向かう。

ガス抜きのために「豊かさ」や「自国ファースト」で餌付けできているうちは良い。

でも「気づかないふり」は長くは続かない。

 

国よりも人を中心に添えないと、

結局、自治はうまくいかない。

 

水滸伝でも三国志でもそう。

人は自分のことをわかってくれる人に命を捧げる。

歴史がそれを物語っているはず、


「見られているかもしれない」

という抑止力、

知らないうちに着々と広がっている。


身長、体重、家族構成はもちろんのこと、

趣味、趣向、性格から性癖まで、

いつの間にか誰かに知られているかもしれない。


決して海の向こうの話では済まない。

我々はそういう場所で生きていかなくてはならないのだ。

 

誰かに秘密を知られているかもしれないと、

疑いながら生きなければならないし、

誰かの秘密を知ってしまっても、

知らないふりをして関わらなければならない。


なんとも生きづらい世の中、


「安心・安全を守るために必要なこと」


「見えない抑止力」に支配されて、

「無言の圧力」に晒されて、

薄々そのことに気が付きながらも、

気が付かないふりをして生きている。


これでは心を壊してしまうわけだ。

 

不平不満を漏らしても、

世界の方はなかなか変わってはくれない。

 

あくまでも自分がどう生きるか。

しなやかさを失わずに強く在りたい。

 

 

意味を必要とする生き物

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ドストエフスキーだったかと思う。


シベリアでの刑務作業、

半日かけて穴を掘って、残りの半日で穴を埋める。


無意味な作業、

前進のない作業、

創意工夫を必要とされない作業、


それを毎日ひたすら繰り返す。


すると多くの場合はそれに耐えられずに、

精神に異常をきたしてしまうみたい。


「人は意味を必要とする生き物」


今現在に意味を見いだせなければ、

刑務作業と同じなのかもしれない。

苦しくてたまらない。


だけど救いは自由があること、

意味を探す手立てはいくらでもある。


春の訪れ、

あの子の前髪、

上司のお腹周り、


同じような毎日に思えても、

世界は少しずつ変わっている。


日常の小さな変化に気づいてあげればいい。

それだけであなたがその小さな変化の意味になってあげられる。


自分が何かの意味になること、

それ自体が生きる意味につながる。


人から意味を取り上げてはいけないし、

自分から意味を取り上げてもいけない。


顔を上げて、

姿勢を正して、

口角をキュッと上げるだけで、

ほら、なんだか目の前の単純作業にだって意味があるような気がしてきた。


消えてしまいたくなるならば、

駅のホームにあふれかえるやさぐれたリーマンに、

声の一つでもかけてあげればいい。


「今日も空は青いですね」って、

それだけであなたが誰かの意味になれるはず、


「すべてのことには意味がある」


本当にそうなのかは時を経ないとわからないけれど、

少なくともそう思っていないと、

意味があったことに気がつけない。


彩り、

僕のした単純作業が誰かの笑顔を作っている。

そうならば素敵なこと、

否、そう思って生きているだけで素敵なこと、


今更だけれども、

「ポジティブ」を上手に使えるならば、

幸せに生きるためにとても有効なソリューションなのだろう。


「いーみなーいじゃーん」


そんなことはない。

誰かが笑顔になれるだけで、

その言葉にも意味はあるのだ。

 

時代の代弁者

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今を生きる自分たちを代表して、

言葉にならないことを言葉にしてくれる人、


そういう人が求められている。


論客として世に提言したり、

芸術に昇華したり、

カタチは様々あるだろう。


けれど代弁することを目的にしてしまうと、

途端に色あせてしまう。


あんなにも輝いていたアーティストが、

なんだか色あせて見えてしまうことは少なくない。

その時は本人か時代のどちらかに変化が起きているのかもしれない。


いつまでも時代の代弁者で居続けることは、

とても難しいこと、


「創造的人生の持ち時間は10年」


ジブリ映画『風立ちぬ』で出てきたセリフ、


大人の事情で寿命を縮めてしまうこともあるし、

ライフステージが変われば表現も変わらざるを得ない。

自分の内面の変化についていけない自分、


そうなると、

あとは過去の遺産と想像力で勝負するしかない。


時代を謳歌する人たちの気持ちは、

時代を謳歌していないと代弁できない。


想像で断片をつなぎ合わせて、

なんとか形にしたところで、

おそらく自分が一番納得しないはず、


だからあとは重荷を下ろして好きに表現すればいい。


その時のありのままを、

自分を気持ちよくしてあげられるように表現すればいい。


誰から認められなくても、

表現したいことを表現することができるならば、

それが「生きがい」になる。


時代を作る必要も、

世代を担う必要も、

必要とされる期間は限られているのだから、


人生だってそう。


子供ができれば子供が主役になると聞くけれど、

自分が主役の時間を作ってあげないと苦しいはず、


他の誰から使い捨てにされたとしても、

自分だけは自分を使い捨てにしてはいけない。


「若い頃はモテたのよ」


過去の栄光なんてものは、

思い出に浸りたいときにだけ引っ張り出してやればいい。

 

大切なことは、

今の自分を好きでいられること、

 

 

誰かのせいにしていれば楽に生きられる

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誰もやり方を教えてくれないから、

仕事ができないのは周りのせい、


向こうから先に距離をおいてきたのだから、

関係がうまくいかないのは向こうのせい、


私にかまってくれないから、

万引きするのはお母さんのせい、


お金がないのは、

賃金上昇、景気回復を謳って、

物価や税金ばかり上昇させる日本政府のせい、


いつだって誰かのせいにしていれば楽、

自分が変わらなくても幸せを錯覚できるのだから、


でも、どこかで気がついているはず、

そんなことをしたって一時しのぎに過ぎないこと、


気が付かないふりはそう長くは続かない。


先延ばしにすればするほど、

来た道を引き返すだけで一苦労、


一発逆転を夢見て、

人を道具としか見ない商売に手を染めたところで、

自分も道具に成り下がるだけ、


使い捨てにされて、

誰かのせいにできる理由を増やすだけ、


「自分は悪くない」

誰かのせいにできて良かったね。


別の悪くはない。

けれど良くもない。


行き詰まることはわかっていたのに、

そこから抜け出す努力をしなかったのだから、


たいていそう。

行き詰まる前に行き詰まることはわかっている。


そうなると心の置きどころはどんどん狭まって、

妥協してもしても追いつかなくなって、

最後の最後にプライドを担保に、

誰かのせいにしていたその誰かに泣きつく。


それでも誰かのせいにすることを辞められないと、

もはやなんのために生きているのかわからない。


心にもない「悪いと思っている」を武器にして、

人を傷つけることに鈍感になって、

使えるものは何でも使って、

ただただ生きるために生きる。


始まりはほんの些細なこと、

でも気がつくと深みにハマって抜け出せなくなる。


「自分の人生は自己責任」


周りに甘えることしか考えていなければ、

差し伸べられていた救いの手は、

みるみる数を減らして、

やがてゼロになる。


どこかで気がついてよ。

人間ではなくなってしまう前に、

 

200日連続更新

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昨日の記事で200日連続更新となりました。


いつもご覧いただきありがとうございます。


読者数は200を大きく超えて、

アクセス数も20000を超えて、

先日ははてなブックマークに掲載されたり、

検索流入も少し増えたり、


ご覧いただけるだけでもありがたいのに、

多くの方にフィードバックまでしていただいて、

本当に励みになります。


反応があるって嬉しいもので、

私も皆様の記事に目を通すだけでなく、

フィードバックすることを心がけるようになりました。


テーマのない雑記ブログ、

しかもネガティブ多め…


そんなしがないものですが、

今後とも宜しくお願いします。

 

 

さて、100日更新の際に書きましたので、

この100日での変化を残しておきます。

 

 

○100日から200日までで変わったこと


・仕事が落ち着いた

・飲む頻度が増えた

・トレーニング強度が上がった

・読書時間が増えた

あいみょんにハマった

・色々と割り切るようになった

・転職意欲が高まった

・人と会う頻度が増えた

・薬を飲まなくて良くなった

・会話力が上がった?

 

 

仕事は忙しくない割りに疲れる。

レーニングの疲労はあるだろうけれど、

メンタルが大きい。


今は色々なストレスと向き合えているけれど、

耐えられなくなったら逃げ出そう。


アウトプットの習慣がついたからか、

言葉が口をついて出るようになった気がする。

会話を続ける力はついたけれど、

軽口を叩かないように注意しないと、


あとは色んな所で一目置かれるようになった。

良くも悪くも、

ホントめんどくさい。


振り返ってみると、

女性関係以外は不満がなかったりします。


300日までにそっちの方でも結果が出ると良いですが、

あまり動いていないので…


春はもうすぐそこ、


拙いブログですが、

気が向いたらお付き合いいただけると幸いです。