「なんとなく疲れている」ということは減った。
「明確に疲れている」のだ。
疲れて仕方がない。
自律神経が乱れていることは明白、
若干の乱れはあるものの、
規則正しい生活を続けている。
運動習慣はある。
体は順調に仕上がっている。
おそらくストレスが強いのだろう。
それも要らぬストレスばかり、
必要のない人間関係と、
必要のないことで悩んで、
必要のないことばかりやらされる。
「必要がない」と提案しても、
「今までもそうしてきたから」と、
おあつらえ向きの返答、
「やりたいこととやらなくてはならないこと以外は極力やらない」
そう決めて生きているから、
なんだか合理化することが癖になって、
非効率的な行為に対する嫌悪感ばかり募る。
その要らぬ手間にやりがいを感じて、
満たされている様子の仲間がいる。
その様子を見ていると、
嫌味なしになんとも羨ましく思う。
「やりたくない」からストレスが溜まる。
「やりたいこと」ならば、
どんなに非効率でも楽しいのだろう。
世の中から非効率がなくなったら、
相当な人が職を失うことになる。
結局、社会は利権を守るために一定以上の効率化を嫌う。
きっと生活だってそういうもの、
何でもかんでもロボットがやってくれるようになったら、
「生きる」意味を見失ってしまう。
掃除や洗濯、食事に入浴、
日常に「生」の実感を見いだせないと、
やがて息を吸うことすらめんどくさくなってしまう。
便利になるのは趣味に時間を割けるくらいのところまででいい。
人はめんどくささに「生」を感じるのだ。
隠れた手間に気がつけるようになりたい。
そして、そこへの感謝を忘れずにいたい。
味を整えるための入念な下ごしらえ、
プレゼン前の足を使った地道な事前調査、
0.01秒を縮めるための血の滲むような努力、
LINEよりもあの子に思いを伝えるための下手くそな手紙、
「何でもかんでも便利になればいいというものではない」
時間を使って、
体を使って、
まごころを伝えることが「おもてなし」なのだろう。
一見すると非効率に思える作業の中に、
真摯な気持ちが宿る。
その真摯な気持ちが響くから、
人の心は動く。
「うらおもてなし」
とはよく言ったものだ。
便利になる代償として、
便利を求める代償として、
何かを失い続けていると感じるこの頃、