愛着障害

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少し話題になっている本のテーマ、

前に記事にしたキルケゴール死に至る病』の現代版とのこと、


キルケゴール死に至る病を「絶望」としたが、

この精神科医である著者は「愛着障害」とした。


愛着障害


自分や他人のことをうまく愛せないということらしい。

幼少期に注がれた愛情が乏しいとそのような傾向になりやすいとのこと、

鬱や神経症発達障害者は「愛着障害」であることが多いという主張、


「なるほど」と思うことは多かった。

だけれども決めつけが過ぎる印象、


愛情の形はそれぞれだし、

受け止め方もそれぞれだから、

「あなたは愛着障害です」

そんな事言われても診断する側の主観でしかない。


そもそも人って自信がないほうが普通だし、

自信過剰な人ほどどこかで折れた時に再起不能になりやすい。

 

歪んだ自己愛は「愛着障害」に当てはまるのか。

誰しもそういう部分を持っていて、

それを表面に出さないだけ、

誰だって少なからず自分のために生きているわけでしょ。


「自分と他人を同じように愛せる人」

それが健常者ですよ。


もしもそんなことを言われたら、

聖人以外はみんな「愛着障害」である。


「この世界にいても良いんだな」


そう思えないことがメンタルを病む要因、

そのことには同意するけれども、

そう思えない人は「愛着障害

それは飛躍しすぎている。

そもそも教育とか育児に正解なんてあるのだろうか。


先生が先生をいじめる時代、

子供の頃から必要以上の情報に触れて大人になる。

 

現代人が1日で触れる情報量は、

平安時代の人の一生分らしい。


脳の機能はそう大きく変わるわけでもない。

どう考えても情報過多なのだ。

人の進化が時代の進化に追いついていないのかな。


情報に振り回されない。

必要なものなど本当は一握りしかないのだ。


ちなみに私はきっと「愛着障害

「異性として愛される」って経験が乏しいから、

男としての自分を信じられない。


アプローチらしきものをされたって、

それが好意だと信じられない。


なんてね。

そうやって言い訳はいくらでもできる。


型にはめてわかった気になるよりも、

自分の状況がどうで、これから先どうなりたいのか。

それを明確にするほうが先なんじゃないかな。


難しいことは先生方に任せていればいい。

そういうことをお仕事にしてご飯を食べているのだろうから、

 

あまり不可逆的なことを理由にして、

自分にはどうしようもないって、

そういうのは好きではない。

 

「現状は必ず打開できる」

 

高い壁を目の前にしても、

そう思える強さを身につけたい。


結局、

いくら誰かのせいにしようとしたって、

自分の人生は自分しか責任をとってくれないのだ。