人は大なり小なり物心ついた頃から、
「アイデンティティ」と言うものを形成し続けて、
それを元手に「行動規範」を決めていく。
主張に「一貫性」のある人は信用を得やすいし、
そうでなければ信用を失いやすい。
「自分はこういう人間だ」
それを詳細に言語化できる人ほど、
ある意味では「自分を知っている」のかもしれない。
だけれども、
あくまでもそれは「自分から見えている自分」でしかない。
「他人から見えている自分」と言うものも存在するのだ。
そして「自分」の視点と「他人」の視点、
両者が一致しているかと言うと、
必ずしもそうではない。
むしろ一致しないことの方が多いくらいだ。
「他人から見えている自分」
そこに軸足を置いてしまうと、
より大きかったはずの「自分から見えている自分」をすり減らして、
「他人から見えている自分」に合わせるようになる。
そうやって自分の「理想」だとか「信念」だとか、
大事にしていたはずのものが削り取られていく。
保身のために嘘をついたり、
損得だけで人間関係を形作ったり、
望んでもいない相手と体を重ねてみたり、
そうやって「すり減っていく」のだ。
「組織」と言う器に合わせて、
どんどん「自分」の形は変わっていく。
もちろん好ましい変化もあるだろう。
できなかったことをできるようになるために、
人は変わらなければならないことがある。
その先に「望む未来」があるならば、
それは「成長」という名の、
人生にとって必要な変化なのかもしれない。
最初は「何でもできる」って信じていた。
子供の頃は「自分の可能性」を信じていた。
目の前には無限の可能性が広がっていて、
望めば「なんにだってなれるんだ」って、
信じて疑わなかった。
そこから徐々に少しずつ、
ヤスリのようなもので削られていって、
時にはナイフで強引に抉り取られたりなんかして、
どんどんどんどん小さくなっていく。
厄介なことに、
「無くなってしまった部分」のことばかりが、
やけに愛おしく思えてくる。
夜な夜な咽び泣いてみたり、
「無くなった部分」を別の何かで補おうとするけれど、
多くは「どうにもならない」ということに気が付くだけで終わる。
だから、
まだ残っている部分への愛着は強くなり、
それは執着に変わり、
年を取るごとに「すり減らすこと」に臆病になっていく。
そうこうしているうちに、
それは鉄のように固くなっていって、
どんなにヤスリで削られても、
ナイフを突き立てられても、
ビクともしないように固まっていく。
そうやって出来上がった自分自身、
今度は別の問題が出てくる。
別の「器」に合うように、
自分の形を変えることができなくなるのだ。
これまで生きてきた道を信じたいあまり、
愛着を執着に変えて、
「悪いのは周り」だって思い込み、
変わることができなくなる。
そして苦しんで「居場所」を失って、
やがて孤独に耐えかねて、
「それでもいい」って言ってくれる人たちに、
素直に感謝を伝えられるようになる。
そうやって人は「終わり」へと進むのだ。
さんざん「すり減らして」生きてきて、
次第に「すり減らすこと」もできなくなって、
最後は自由自在に己の形を変えられるようになる。
そこまで行けたら、
その人生はきっと幸せなのかな。
「自分をすり減らす」
人は少なからずそうやって生きている。
そうやって形を変えて生きている。
だけれども、
元あった自分とは全く別の形になってしまっても、
「大事なもの」がその真ん中にしっかりとあれば、
きっと大丈夫なんじゃないのかな。
「大事なもの」を端っこの方に、
チョコンと置いていないでさ。
しっかりド真ん中に置いておけばいい。
そうじゃないと何かの拍子に、
知らずのうちに削ってしまうかもしれない。
私はまだ私の大事なものを、
きっと真ん中付近に残している。
そう思いたい。
だから私は童貞なのだ。
それってきっと素敵なこと、
私はきっと、ちゃんと私らしく歩んでいる。
無理にでもそう思うことにした。