自分よりも立場が上の人に対して寛容ではない。
「媚びる」とかそういうことが苦手、
不満が募ると「ぞんざいな態度」に変わっていく。
私の場合はこれが「わかりやすい」のだ。
その「不満」
私の場合は突き詰めて合理的に考えるから、
立場の上の人が行う「非合理」や私に対する「不当」な扱いが許せない。
そもそも「ダニング=クルーガー効果」というものがあって、
能力の低いものほど自分の能力を高く見積もりがち、
その点からすれば「謙虚ではない」
そのこと自体が「無能」という証なのかもしれない。
「権力に対する反骨心」
私はそういうものが強いのだろう。
だから立場が上の人は「組織側」
そういう見方をしてしまうのかもしれない。
その「組織側」が搾取を始めたらその組織は衰退していく。
人が資本であり、人の集合体が組織なのだ。
そんなイデオロギーを抱えているばかりに、
どこか「組織側」に対して「不寛容」になっていく。
それが私の課題だ。
「組織側」の人だって同じ「人」なのにね。
それに「見る人」によっては私も「組織側」の人間だ。
どこか自分だけが特別だと思っていて、
「組織側」と「人間側」の中間地点にいると思い込んでいる。
だから「謙虚になれない」
こういうことになるのだろう。
以前の記事で私は自分のことをファイナルファンタジーにおける「赤魔導士」だと表現した。
色々なことをそれなりの水準でこなすけれど、
決め手に欠ける「器用貧乏」なのだ。
加えて「人の間に立って物事を調整する仕事」
そういう立場にばかりいるから、
自分が「調停者」みたいな錯覚に陥っているのかな。
「組織」に所属していても、
どこかその「組織」を俯瞰して見ている。
詰まるところ「幼稚的全能感」を捨てきれない。
そんな「大人子供」なのかもしれない。
「不満があっても態度に示さない」
10年以上社会人やっていてそんな当たり前のことが苦手、
どこか「独善的」で「正義は我にあり」とでも思っているのだろう。
確かに私が「不満」を持つ場合、
冷静に考えてみても私のほうが「合理的」であることがほとんどだ。
だけれども、
それは「私の見える範囲」でしかない。
ある面では正しくても見方によって180度変わることも珍しくはない。
普段から「満たされない」感覚が強いから、
どこか「不満」に対して敏感になっている。
「ほらまた」
「いつだってうまくいかない」
そうやって「うまくいかないこと」ばかりを探しているのだ。
そうやって「うまくいかない人生」を自ら仕立て上げている。
なんとも馬鹿らしい。
自分で自分を不幸にしているのだ。
「やるべきこと」を淡々と続けてきた。
だけれどもそれが「やるべきこと」だったのかわからない。
なかなか辛いものがある。
何も進まないままに時ばかりを重ねていく。
私の感じる「居場所のなさ」
その病理はボロボロな「男としての自尊心」
私は何度その惨めなありさまと、
向き合わなければならないのだろう。
しばらくは何となく意識せずに済んでいたけれど、
桜の季節を迎えると、その「不変の美しさ」から、
どこか自分の「醜さ」を浮き彫りにされたような気になる。
散りゆく桃色の欠片たちは、
刻一刻と迫るタイムリミットを物語る。
「時の流れ」
ただ無遠慮にそこに身を任せられるほど、
私の人生は先に進んではいない。
枝葉の先に微かに残る欠片たち、
それは私に残された数少ないチャンス、
ふわりと落ちるその瞬間、
地面にたどり着くまでに手中に収めるべく、
残された欠片たちを愛おしく見守る。
ただ愛でる。
私は私の可能性を慈しみ、
ただ愛でる。
今はそういう時期なのかな。