3年もブログを書いていれば、
「また同じようなことを書いているな」
そう思うことが増えてくる。
毎日更新していると、
私のアップデートが間に合わないのだろう。
「アウトプット過多」
もしかしたらそういう状況なのかもしれない。
それでも私は「書くこと」が好きだから、
というよりも、書くことを止められないから、
事あるごとに筆を進めている。
そうして気が付くことがある。
「同じようなこと」を繰り返し書いてもいい。
そう。
何度「同じようなこと」を書いてもいいのだ。
ある事象に対して「同じようなこと」が私の中から浮かんでくるならば、
それは私にとって「大事なこと」なのだろう。
少なくとも「今その時」は「大事に思っていること」
だから記憶に定着させるために、
何度でも書き続ければいい。
前置きが長くなったが、ここからが本題だ。
気をつけなければならないのは、
書くことが「ネガティブな感情」の場合だ。
「ポジティブ」でも「ネガティブ」でも関係ない。
それどころか「自己防衛本能」が働く分、
「ネガティブ」なほうが記憶には残りやすい。
その感情が育っていくと、
やがてそれは「憎しみ」に変わる。
「吐き出すこと」は大事、
だけれども「吐き出した後」はもっと大事、
そこに何かしらのカタルシスがないと「満たされない」
そうやっていつまでも「ネガティブ」に支配されることになる。
逆に「吐き出すこと」に快感を覚えてしまうと、
そのことに依存して生活を組み立てるようになってしまう。
いずれにしても、
何度も何度も書き続けると、
それは日常生活にまで侵食してくる。
そのネガティブな対象に「憎しみ」を覚えるようになる。
一度育ってしまった「憎しみ」は、
心の奥底にこびりついてしまうのだ。
そうなってしまうと手放すのに苦労する。
「辛い時」ってのはさ。
「苦しい時」ってのはさ。
どこかにその感情を吐き出したくて、
辿りついた先が「ブログ」なのかもしれないけどさ。
私の経験を通して言えることは、
いくら「ネガティブ」を吐き出し続けても、
「満たされること」なんてないということ、
村上春樹氏が『回転木馬のデッド・ヒート』で書いていたけれど、
「書くことでどこかに到達することはない」ってのは、
そういうことなのかもしれない。
「書かざるを得ないから書く」
その作業によって救われることはあっても、
その作業自体に「書き手」をどこかに運ぶ効用はない。
『ダンス・ダンス・ダンス』にあったように、
ただの「文化的雪かき」なのだ。
だから私はネガティブなことを書くときは、
どこか「道化」に成り下がっている。
自らを嘲笑の的にすることで、
「書き物」にある種の芸術的価値を見出そうとしているのだろう。
自らの醜さや愚かさを包み隠さずに描き、
人間存在の本質に迫る。
純文学ってものの本質はそこにあるのかもしれない。
だいぶ話が逸れてきたな。
さて「ネガティブな感情」
ただそれを垂れ流す。
そうしなければ「生きていけない時期」はそうしていればいい。
ただ、それを「生きがい」にしてしまうと、
「ネガティブ」が記憶に定着してどんどん育っていく。
行くところまで行くとそれは「憎しみ」に変わる。
だから「吐き出すこと」に依存してはならない。
私はその対策として、
「感情を抽象化」して文学的に描くことで、
リアルの自分とは切り離して「吐き出している」
それだけでも十分にカタルシスを得られるのだ。
そんなところだろうか。
「書くことの力」
私は少なくない影響を人生に与えると思っている。
それは「読むこと」の何倍も大きいものだ。
だからこそ「書く内容」にも気をつけなければならない。
書くことで人生を損なってしまったら元も子もないのだから、
「人生を豊かにするためのブログ生活」
そのことだけは忘れてはならない。