私は女性の体重を「軽く」考えていたのかもしれない。
数字の面でも、気持ちの面でも。
妊婦健診に同行したときに、子供の経過が順調であることを妻が見せてくれた。
その中に妻の体重の項目があったので、思わず「こんなに体重あるの?」と声を出してしまった。
その一言が大きな地雷だったことにすぐ気がつく。
みるみる不機嫌になっていく妻。
「お腹の子と2人分だからね」とむくれる姿を横目に、私は「そうだよね」と返すも納得いっていない様子。
こういうところには触れない方が良いことはわかっている。
思わず声を出してしまった私の負けだ。
「負け」ということは、どこかに勝者がいるのかと考えるが、勝者などいない。
誰も得をしない展開である。
その後、気を取り直して妻の機嫌は落ち着いたが、今後私が妻の体重に触れることはないだろう。
しかし、私の頭には数字が残り続ける。
何度も振り返りを行うことで、いやでも脳に定着してしまうのだ。
苦い経験ほど何度も振り返りを行う。
それが逆効果となる。
振り返れば振り返るほど、脳はその記憶を重要なものとして定着させる。
忘れようと思えば思うほど忘れられないのだ。
「臥薪嘗胆」という言葉がある通り、苦い経験を糧にして起死回生を狙うという考え方もある。
これからの私は、妻の体重を知りながら、その対応を試され続けるのだろう。
テレビで女性の体重に関わる話題が流れようものならば、すかさずチャンネルを変えたり、体重の「重」という感じを見つけたら、すかさず手で隠したり、そんな不自然な行動を撮り続ける中で、記憶は「呪い」に変わっていく。
細かいことを気にすることなく、自然に振る舞っていれば良い。
妻が不機嫌になったらなったで、その時に考えれば良いのだ。
自然体で過ごしながらも、
思いやりだけは忘れずにいたい。