資本主義経済が本格的に幅を利かせてから、早60年というところだろうか。
その間の道のりで「機能的共同体」即ち「会社」をはじめとする目的を持った組織の持つ、
人生に対する影響は拡大の一途をたどってきた。
ここ最近はそれに当てはまらない向きもあるかもしれない。
個人事業主として生計を立てる「自由」
そういうチャンスは少し前と比べれば格段に広がった。
その意味では純粋に「企業」=「機能的共同体」とは言えないのだが、
フォロワーやチャンネル登録など「ある目的のもとに人が集まった組織」という点では、
「ゲゼルシャフト」と呼ばれる「機能的共同体」の持つ意味は拡大する一方と言って差し支えないだろう。
コロナ禍はまさに「分断の時代」だ。
「生身の触れ合い」は制限されて、人と人との「物理的な距離」は広がるばかり、
それと概ね比例して「心の距離」も離れていく。
予定されていたイベントは中止され、
「ちょっと飲みに行こうよ」ってやつは「社会悪」のような扱いだ。
年に数回程度あっていたような友人とは全く会わなくなり、
職場の同僚など「生活のために会う必要のある人」との接点しかなくなる。
「機能的共同体」
人間関係がスポイルされるに従って、
それの持つ意味はますます大きくなっているのかな。
そうなってくると、本来の「機能」に加えて付加価値をつける必要が出てくる。
「組織の利益を上げる」というだけでなく「居場所がある」ということ、
そういった実感を与えられるような付加価値が求められるのかもしれない。
人は「居場所」を失うことを恐れる。
だけれども、人との「物理的な距離」は広がっていく。
そうなると「今あるつながり」の中に「居場所」を求めるようになる。
今後、社会はそのようなニーズに応えていく必要があるのかもしれない。
先日の「心理的安全性」の記事にも書いたが、
先進的な企業ほど「個人の能力を発揮できる環境づくり」に着手している。
今や、手をこまねいているだけでは優秀な人材は確保できないのだ。
もちろん変に馴れ合う必要は全くないけれど、
「労働力」という無機質な駒ではなく「居場所がある」という実感、
それは生きるうえでとても重要なもの、
労働問題の顕在化により、
表向きには「社畜」という言葉が駆逐されようとしているけれども、
本質的には「社畜」として生きざるを得ないビジネスマンがほとんどだろう。
労働時間の制限という名目で監視は強められて、
限られた時間の中で効率よく成果を上げることを求められる。
箱だけは綺麗に整備しても中身はぐちゃぐちゃなまま、
そして、それに対応できなければ社員は淘汰されていくことになる。
「十分な報酬」と「成長を実感できる環境」
労働者が企業に対して求めるもの、
前者だけでは不十分なのだ。
そして後者を実感するためには「居場所」が必要だ。
お互いに支えて励まし合う共同体、
今後の「機能的共同体」にはそういう要素が求められるのかもしれない。
「会社は利益を上げるためにある」
それは確かにそうだけれども、
働く人にはそれが響かなくなっているのだ。
同じ目的に向けた一丸となって突き進んで成果を上げる。
その「高揚感」という麻薬の効果は薄れてきている。
今の若者はパーソナリティを肥大化させているから、
組織に積み重なるものよりも、個人に積み重なるものに比重を置く。
そうなると「居心地の良さ」や「成長の実感」
個人に帰属するメリットを供与しない組織からは離れていく。
決まった号令をかけ続けて一体感を演出する組織のあり方では人はついてこないのだ。
個々人がメリット、デメリットを判断してどこに所属するかを選ぶ時代、
どんどんそういう方向に進んでいる。