たわいもない会話の中に、相手の人となりが見える。
それだけで、相手も同じ人間なのだと安心する。
疑心暗鬼に満ちた時代だ。
隣にいる人が、人の皮を被った畜生の可能性もある。
「自分の身は自分で守らなければならない」と、そう喧伝される優しくない世界。
扁桃体や副腎は過活動を続けており、明確な不調ではない、何となくだるいという慢性的な不調に悩まされる現代人。
慢性的な不調の裏には、慢性的な不安が隠されているのだ。
人は、言葉を交わすだけで、多少なりとも心を通じ合わせることができる。
それなのに、隣にいる人とメールやチャットで会話をし、目の前にいる人の話を画面を見ながら聞く。
なんとも不健全な世の中になってしまったものだ。
目を見て話し、頷きながら話を聞く。
これまで何世紀もの間、人はそうやってコミュニケーションを図ってきた。
それがここ10年ほどで一変してしまった。
人の構造的進化は、そこまで速くはない。
だから、機械の方ばかりどんどん先に進んでいき、人は機械に振り回されているのが現状だ。
システマティックになるほどに、無駄は省かれていく。
だけれども、人が心を通わせるために必要な無駄まで省いてしまったら、組織に対する帰属意識を醸成することはできない。
目に見えない不信感ほど怖いものはない。
それは陰で育っていき、気がつくと手に負えないくらい大きなものへと変わっている。
そこからのリカバリは困難だ。
一度育ってしまった不信感は、一人歩きして、他の人にまで負の影響を与えていく。
詰まるところ、雑談はリスクマネジメントだったりする。
育ちかけている不信感の芽を摘むための時間なのだ。
表面ばかり繕ってさ。
何を考えているかわからない。
良いことばかりを口にしてさ。
行動は別の方向を向いている。
ある種のマニュアルみたいな「良い人に見せるスキル」が先行するものだから、皆が皆金太郎飴のように、波風を立たせないリーダーを目指す。
その風潮に寒気がするのは私だけだろうか。
もっと個性を発揮した上で、みんなが生き生きと活躍できる組織が増えると良いのに。
「多様性を認める」
そんな体の良い高難度のお題目ばかりが一人歩きして、実態は伴わない。
個性を殺した画一的な組織の方が、格段に管理しやすいことは当たり前だから、余裕のない組織ほど、「多様性」とはかけ離れたものになる。
本当に「多様性」を認める組織づくりを進めるのであれば、現状抱えるタスクの3割ほどはバッサリと削るくらい抜本的に「余裕」を生み出すところから始めなければならない。
「余裕」があれば、自然と雑談くらいするようになる。
そこからがスタートなのではないだろうか。
帰属意識のない組織に対して、貢献しようと思う人はいない。
どうしたって、人が評価して、評価されるのだから、そこに納得を生み出さなければならない。
そのための雑談なのだ。
多少なりとも裏側が透けて見える相手と、共に時間を過ごすことで、人はそこを「居場所」にすることができる。
みんな心ではそういうものを求めている。
だから『SPYxFAMILY』が流行っているのだろう。
あの作品は、現代社会のメタファーなのだ。
ふと、そんなことを思った。