「エコーチェンバー現象」
ここ最近よく目にする言葉だ。
自分の中にある意見に対して「共感」が集まることで、その意見に対する認識は自分の中で「正義」だという方向へと増幅されていく。
その後はその意見を肯定する材料ばかりを探し、その意見を肯定する人たちとばかり付き合うようになり、その意見が「アイデンティティ」へと進化していく。
これが「エコーチェンバー現象」
行くところまで行ってしまうと、「正義」のためならば他人を攻撃しても構わないという思考へと陥るのだ。
そこに至る過程を想像してみる。
人は「居場所」を求めてSNSに没頭する。
だからそこで目にした意見を自らの価値観に照らし合わせて評価する。
その評価が「意に沿うもの」であれば「共感」が生み出される。
その「共感」という名の「おやつ」を食い漁ることで満たされて「居場所」は生み出される。
意見を同じくするものばかりの集まりだから、その「居場所」では批判に晒されることはない。
その関係は互いが「共感」という名の「おやつ」を与え合って「居場所」を確保することが目的なのだ。
進むところまで進んでしまうと、どんなに反社会的で非道徳的で合理性を欠いた主張に対しても「共感」が集まるようになる。
「共感」という名の「おやつ」を与え合うことで作り上げられたコミュニティ、
「主義・主張」などハッキリ言ってどうでもいいのだ。
そこに「居場所」があって、自分は正しいという実感がある。
それが全てだ。
その魔力はすさまじい力で人を惹きつける。
そうやって人は「狂っていること」にも気がつかなくなる。
「居場所がない」ことは辛いからさ。
仮にそれが「悪」だとわかっていても「居場所がない」よりはマシだからさ。
人は「居場所」を求めてどんどんハマっていくのだ。
「自分の人生を質に入れること」
それで「居場所」を見いだすというのは人間の弱さだ。
そこに「病理」があるんじゃないかな。
何かに所属することで得られる充実感というものは確かにあるけれど、そこに傾倒しすぎると人生を誰かに委ねていることになる。
何かに「所属すること」自体を否定するつもりはないけれど、あまりにも軸足を置きすぎるのもどうかと思う。
何物にも属さない単体としての「自分」を肯定できるようになること、
自分で作った「ものさし」をもつこと、
それが大事なんじゃないかな。
「居場所」がないと今にも消えてしまいそうに弱ってしまうのに、
「居場所」を守るためならば悪魔にもなれる。
人を蹴落として、人を食い物にして、それで勝ち取った居場所、
それは仕方のない部分はあるけれど、そこに対して葛藤すらしなくなる。
それを当たり前だと思って、心を麻痺させて、自らの欲望を満たすことに夢中になる。
多くの人は生まれながらにしてそうじゃなかったはず、
傷ついて、傷つけて、
人の悪意に晒されて、自分の悪意を正当化して、
そういう作業を続けているうちに、
いつしかそれが「当たり前」になってしまうのだろう。
「みんなやっているから」
「社会」という名の宗教、
誰もが気付かぬうちにそれに所属しているのだ。
人はなんて「強く儚い生き物」なんだろうね。