「童貞のまま結婚した男」の記録

元「30代童貞こじらせ男」 30代後半まで童貞で、そのまま結婚した男の記録です。

生まれた時から「リスクマネジメント」を強いられる子供たち

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世界はいとも簡単に繋がってしまった。

指先一つで情報はいくらでも手に入るし、自らの情報を提供することもできる。

 

自己承認欲を満たすために、自らの裸を晒す若い女性がいたり、幸せであることを示したいがために恋人とのツーショットをアップしてみたり、

はたまた匿名で誰かの不利益となることを書き込んでみたり、

 

もう一度書くが世界は開かれている。

どこで誰が見ているかもわからない。

 

巧妙に隠しているつもりでも、リアルな情報からバーチャルな自分を特定されることも少なくないだろう。

 

ブログを書いていることもリスクだ。

 

特に毎日自らの思考を晒している、私のブログのよいなものはリスクが高い。

一つ一つは世界に無数に存在する事象だったとしても、重なる複数の事象により「もしかしたらあいつか」だなんて特定されることがあるかもしれない。

 

同じような性質の持ち主が繋がっていく。

おそらくその傾向はリアルでもバーチャルでも変わらないのだろう。

だから意外と「世界は狭い」と言われるのだ。

 

前置きが長くなった。

本題に入ろう。

 

何度かブログにも書いているが、今は「子供が子供のままではいられない時代」だと感じる。

 

世界は広がると同時に、世界は狭まる。

簡単につながることのできる反面、繋がるコミュニティの性質は似通ってくる。

 

だから「うまくやる」ためには、コミュニティでの立ち位置を意識しないといけない。

指先一つで簡単に爪弾きにされることもあるのだ。

 

簡単に繋がることができ、簡単に切ることができる。

子供ながらにして、そういうドライな経験を積み重ねる時代なのだろう。

 

人生の多くをそういう環境に費やしていれば、

バーチャルでの経験は当然リアルにも影響を及ぼす。

 

リアルでもドライな人間関係、

リアルな友人も大抵はSNSでも繋がっているだろうから、半分はバーチャルな関係でもあるのだ。

 

深まる疑心暗鬼、

いくつものペルソナを使い分けて生きる。

子供の頃からそれが当たり前になっているんじゃないかな。

 

そういう子供たちに豊かな感性は身につくのだろうか。

 

無条件に世界を信じられるような子供の国、

そこにいる間だけは、ある意味では「世界は自分のためだけにある」

そういう「幼稚的全能感」が器の底にあるからこそ、人は自らの人生を肯定することができる。

 

そういうものが無くならないにはしても、薄っぺらくなってしまったら、これからの時代の人間は、何を糧にして長い人生を生きていくのだろうか。

 

どんどん蝕まれていく。

「利便性」を手に入れると同時に失う大事な「何か」

杞憂ではなく、その「何か」は確かに存在するのだ。

 

人が人であるために大切な領域にメスが入った。

そこにまで取捨選択を持ち込んだ先、人は何を持って「人」と名乗ることができるのだろうか。

 

効率化、生産性向上、

まだまだ頭打ちになる気配はない。

 

それどころかシンギュラリティを迎えるとするならば、さらに加速度的に進んでいくのだろう。

 

「感情」というものは淘汰されていくのだろうか。

それは「人」においても例外ではないのだろうか。

 

ライバルは世界、

上をみればキリがない。

当たり前のようにトップに触れることのできる世の中、

 

「良いもの」にばかり触れて生きるということは、

自尊心を傷つけられやしないのだろうか。

 

才能を伸ばしやすい反面、

無数の屍が周りには転がっている。

 

これからの時代を考えた時に、そんなイメージが湧いてくるのは私だけだろうか。

 

世界はどこに進んでいくのだろう。