世界はいとも簡単に繋がってしまった。
指先一つで情報はいくらでも手に入るし、自らの情報を提供することもできる。
自己承認欲を満たすために、自らの裸を晒す若い女性がいたり、幸せであることを示したいがために恋人とのツーショットをアップしてみたり、
はたまた匿名で誰かの不利益となることを書き込んでみたり、
もう一度書くが世界は開かれている。
どこで誰が見ているかもわからない。
巧妙に隠しているつもりでも、リアルな情報からバーチャルな自分を特定されることも少なくないだろう。
ブログを書いていることもリスクだ。
特に毎日自らの思考を晒している、私のブログのよいなものはリスクが高い。
一つ一つは世界に無数に存在する事象だったとしても、重なる複数の事象により「もしかしたらあいつか」だなんて特定されることがあるかもしれない。
同じような性質の持ち主が繋がっていく。
おそらくその傾向はリアルでもバーチャルでも変わらないのだろう。
だから意外と「世界は狭い」と言われるのだ。
前置きが長くなった。
本題に入ろう。
何度かブログにも書いているが、今は「子供が子供のままではいられない時代」だと感じる。
世界は広がると同時に、世界は狭まる。
簡単につながることのできる反面、繋がるコミュニティの性質は似通ってくる。
だから「うまくやる」ためには、コミュニティでの立ち位置を意識しないといけない。
指先一つで簡単に爪弾きにされることもあるのだ。
簡単に繋がることができ、簡単に切ることができる。
子供ながらにして、そういうドライな経験を積み重ねる時代なのだろう。
人生の多くをそういう環境に費やしていれば、
バーチャルでの経験は当然リアルにも影響を及ぼす。
リアルでもドライな人間関係、
リアルな友人も大抵はSNSでも繋がっているだろうから、半分はバーチャルな関係でもあるのだ。
深まる疑心暗鬼、
いくつものペルソナを使い分けて生きる。
子供の頃からそれが当たり前になっているんじゃないかな。
そういう子供たちに豊かな感性は身につくのだろうか。
無条件に世界を信じられるような子供の国、
そこにいる間だけは、ある意味では「世界は自分のためだけにある」
そういう「幼稚的全能感」が器の底にあるからこそ、人は自らの人生を肯定することができる。
そういうものが無くならないにはしても、薄っぺらくなってしまったら、これからの時代の人間は、何を糧にして長い人生を生きていくのだろうか。
どんどん蝕まれていく。
「利便性」を手に入れると同時に失う大事な「何か」
杞憂ではなく、その「何か」は確かに存在するのだ。
人が人であるために大切な領域にメスが入った。
そこにまで取捨選択を持ち込んだ先、人は何を持って「人」と名乗ることができるのだろうか。
効率化、生産性向上、
まだまだ頭打ちになる気配はない。
それどころかシンギュラリティを迎えるとするならば、さらに加速度的に進んでいくのだろう。
「感情」というものは淘汰されていくのだろうか。
それは「人」においても例外ではないのだろうか。
ライバルは世界、
上をみればキリがない。
当たり前のようにトップに触れることのできる世の中、
「良いもの」にばかり触れて生きるということは、
自尊心を傷つけられやしないのだろうか。
才能を伸ばしやすい反面、
無数の屍が周りには転がっている。
これからの時代を考えた時に、そんなイメージが湧いてくるのは私だけだろうか。
世界はどこに進んでいくのだろう。